半蔵門が睨む先には、紫色の帯があり、ほのかに光る新しい駅名票があった。軽い足音が階段を下りて近付いてきても、半蔵門は目を逸らさない。
「珍しく仕事熱心じゃん」
 足音はここ押上駅で直通する東武伊勢崎線のものだった。隣に並んだ彼は、はい日光からと書類の入った薄い封筒を差し出したが、半蔵門は唇を引き結んで新たな駅名標を見つめたまま受け取らない。
 いつもは賑やかを通り越してうるさいくらいの奴なのに。伊勢崎は意外に思ったが、書類を受け取ってくれないことに苛立ってきた。こんなことなら最初から日比谷を探せば良かった。というよりも最初から日比谷に渡した方が効率が良いことはわかりきっていたのだけれど、忙しい彼をつかまえるよりも、なにかと目立つ半蔵門を見つける方が楽だろうと横着したのが悪かったのだ。
 一緒に来ている日光が、今は上階の改札の外で駅員と話している。ぐずぐずしていたら不審に思って様子を見にくるだろう。書類ひとつ渡せないのかと怒られるのはごめんだ。
 半蔵門の目の前で封筒を振りかざす。
「おい。おーい、半蔵門。さっさとこれ受けとれよ、おいったら」
「伊勢崎ちゃん!」
 いきなり振り返った半蔵門に肩を掴まれ、伊勢崎はうわあと情けない声を出して怯んだ。「な、なに」
「おれの名前『はんぞうもん』なのに記号がZってどうよ?」
「わかりづらい」
 声が降ってくると同時に伊勢崎は肩を引き寄せられ、半蔵門は殴り飛ばされていった。伊勢崎の背中を受け止めたからだは、離すどころか肩を握る。見上げた顔は眼光鋭く、床に倒れたままの半蔵門を睨んでいた。
「伊勢崎に触んじゃねーって言ってんだろ」
「日光」
 伊勢崎は、あっという間にかけてきて直通先を殴った相棒を見上げた。赤いつなぎが地下になると余計に目立つ。
「聞こえてないだろ今のは、たぶん」
 日光は伊勢崎を一瞥して舌打ちし、半蔵門が頬を押さえて呻きながら起き上がるのを待って繰り返す。
「わかりづれーよ、半蔵門のくせにZとか」
「そうだろ」
 半蔵門は殴られたくせになぜか嬉しそうに頷いた。もしかしたら頭のねじが緩んだのかもしれないからもう一発殴っておいた方がいいだろうかと日光は思う。
「わかりづらいだろ? そうだろ? なのに君の記号はZだよもう決まったことだからよろしくね駅名標は全部付け替えるからねって銀座が笑って言うんだよ!」
 地下の重鎮の優雅な笑顔が脳裏に浮かび、つなぎを着た二人はふうん、と応じた。まあ、銀座が言うんじゃ仕方ないんじゃない。
「だからってひどくね? だってHは日比谷でAは浅草でNは南北だからねって、浅草は他社だし南北の開業は俺より後じゃん!」
「半蔵門でAとかNとか言われてもわかりづれぇよ。Zでむしろ良かっただろ」「そうそう」
「じゃあやっぱHだろ!」
 あ、と日光と伊勢崎の声が揃ったすぐ後、半蔵門が今度は二人の方へと飛んできた。紫のネクタイがなびいて背中に垂れている絵面はどうにも間が抜けている。半蔵門の立っていた位置に視線を戻すと、顔を真っ赤にして肩で息をする日比谷が立っていた。
「恥ずかしいことを大声で言うな!」
 乗客が何人か傍を通り過ぎて行き、日比谷が乗ってきた電車の発車ベルが流れた。東武伊勢崎線直通、南栗橋発、中央林間行。
 うつぶせで床に倒れ込んだ半蔵門は起き上がって日比谷を見つけると、嬉しそうに彼の名前を呼んで笑顔になった。
 やっぱりもう一発殴っておこうかな、と日光は思う。
「日比谷ちゃんなんで押上にいんの? ここおれの駅だよ?」
「知ってるよ! 東武から受け取る書類があったから探しに来たら、おまえが喚いているのが悪いんだろ!」
「べつに誰も責めてねーって」半蔵門は立ち上がり、膝を叩いて埃を落とした。「で、その書類って?」
 あ、と日光と日比谷が止める間もなく、伊勢崎が半蔵門の鳩尾に三発目を入れた。





 東武の二人と別れ、半蔵門と日比谷は電車に乗って帰ることにした。
 二人で待つ半蔵門線のホームにやってきたのは、昨年から投入された08系ではなく8000系だった。前面が斜めに切り込まれたアルミニウム合金の車体に、パープル一色の帯。まだこちらに見慣れている、と二人とも思って、口に出さない。08系は、日比谷線脱線衝突事故を受けて開発された車両だった。
 帰宅ラッシュに遠い車内はほどほどに混んでいた。席を見つけ、並んで座る。発車ベルが鳴った。日比谷は話しかけようとして開いたくちびるを閉じる。言いたいことがあったわけでもなく、また聞いてもらえるとも思っていなかった。
 だから喋るのはもっぱら半蔵門だった。伊勢崎への文句。日光への文句。銀座への文句。そして名付けられたZへの文句。一頻り喋り通してようやく言いたいことを言い終えたのか、日比谷がろくな相槌を打たないのに閉口したのか、今は黙って日比谷の隣に座っている。
 向かいの窓に映る自分達はあまり同僚には見えなかった。半蔵門が制服ではなくTシャツを着て、髪を明るく染めているからだろう。頭の少し上を紫の帯が流れ、駅に着くとZの英字が目に入った。先月まで紺地だった社章が明るい水色に変わり、駅員の制服がオリーブ色から紺に変わったこともあって、見慣れていたはずのホームは新鮮に感じられる。
 四月一日をもって、営団地下鉄は東京メトロと名前を変えた。
 同時に駅ナンバリングが施行され、都営地下鉄を合わせて十三の路線にはそれぞれ固有のアルファベットが与えられた。Hは日比谷、半蔵門はZ。半蔵門の理屈によれば三田線のIや大江戸線のEもわかりにくいのだろうけれど、彼らが文句を言っているのは聞いたことがなかった。
 いつまでも駄々を捏ねられるくらいならHを譲って、日比谷がBでも構わないのに。そう思おうとしたが、彼があまりに子供っぽく聞き分けがないものだから、妙に意地が張られて言い出せていない。もっとも、銀座ならばいざ知らず、一路線の一存で変えられるものでもない。
 車両が連結器の上を通過し、振動で膝に載せていた書類封筒が落ちそうになった。「おっと」押さえたのは半蔵門だった。
 ありがとう。日比谷はそう言おうとしたが、封筒を開いた半蔵門が、中の書類を見て声を上げるほうが早かった。
「ねー日比谷ちゃん、やっぱ東武でもおれのZ全然浸透してないみたいなんだけど!」
 駅ナンバリングの導入効果を、東武でも調べてもらった報告書だ。来週の会議で報告するために、今日のうちに受け取っておきたかった。半蔵門が受け取っておいてくれても良かったし伊勢崎はそのつもりだったと言うが、どうせ彼一人ではろくな分析もできないので日比谷が二人分の負担をすることになる。直通先を探して他社の路線を走り回ったり、これから作成されるはずの報告書を添削したり。
「ったく半蔵門のやつ。日比谷も大変だね」伊勢崎には怒られた後に同情される。
「同じ会社なんだからちゃんと教育しろよ」日光は最後まで怒っているが、眼には諦めも混じっている。
 日比谷がひとりで東武と直通しているときには、大変だったけれどもこんな苦労はなかった。ひとりで全部決められたし、混雑も収益も自分の努力不足と諦められた。伊勢崎にも日光にも、憐れまれることなんてなかったのだ。
 くちびるから溜息が漏れた。
「これからでしょ。こういうのって、徐々に広めて浸透していくものなんだから」
「浸透するわけねーじゃんZなんて」
「じゃあ銀座に言いなよ」
 突き放した言葉は存外に素っ気なく聞こえたが、訂正するつもりもなかった。蛇口を締め損ねたように溜息が漏れている。疲れるのだ、彼の相手は。何を言い出すのか予想がつかなくて。
 できればこのまま何も言わないで諦めてくれないだろうか、でなければ同じことをごね続けてくれないだろうか、祈っているのに半蔵門は言ってしまう。
「銀座は言っても聞いてくれねーもん」
 気が付くと、日比谷は彼の手から書類を引ったくっていた。
「僕だって好きで聞いてるわけじゃない!」
 怒声には、沈黙が応えた。
 静まり返った車内が、日比谷を見詰めていた。誰の視線とも合わせられずに視線を床に落とし、口もとを押さえる。手はかたくこわばって冷えていた。
「日比谷ちゃん?」視界の端に金髪が映り込む。「悪い、どっか具合悪いのか」
 無視しようにも、声音に滲む気遣いを読み取れる仲だった。じっと横顔を見つめる無遠慮な視線も居心地が悪い。
 大丈夫、と小声で囁いた。半蔵門は、良かった、と頷く。
「んじゃ、それ返してくれ。報告書作るのおれなんだから」
 弾かれたように顔を上げると、彼は当然のような顔をして手を差し出していた。書類を受け取るために。
 その書類を受け取ったのは日比谷だ。報告書を添削するのも。添削というよりも、書き直しに近い割合で。
 怒りは沸いてこなかった。かわりにただ愕然と、彼を見詰めた。
「どうかした?」
 半蔵門はもう一度聞いた。
 電車が減速し、扉が開く。紫の帯に光る駅名票、Zの九番は三越前だ。ここで銀座に乗り換えて、宿舎のある上野へ帰る予定だった。
「ちょっと、ごめん」
 封筒ごと書類を半蔵門に押し付けて駆け出した。日比谷。背後で叫ぶ声を確かに聞いたが、止まれなかった。行く宛てもなかった。










 娯楽室の前を通りすぎようとした半蔵門は、開いた扉の奥から銀座に呼ばれた。「どうせ暇でしょう」随分な言い草だったが、反論してろくなことはない。怒られる覚えがないことだけ確認してから足を向ける。
 ティーセットの置かれた円卓には銀座のほかに丸ノ内と南北がついており、近づくとカードゲームに興じていたらしかった。第三軌条と地下鉄の最年少は、相変わらず優雅なことだ。呼ばれたということは誘われたということだろうと解釈し、空いている椅子を引いて座る。
「南北、おれにもお茶ちょうだい」
「やだよ自分で淹れなよ」
 とりつくしまもない南北の路線記号はNに決まった。他にな行の名前を持つ路線は首都圏の地下鉄にいないので、間違われようもない。銀座のGもそうだ。丸ノ内は三田と争って、争うまでもなく、当然のようにMに決まってしまった。
 いいなあ。腕を組んで、その上に自分の頭を載せる。あーあ。
「なあなあ銀座、おれって東京メトロ半蔵門線だよな」
「いねむりでもしてたの?」
 銀座はきれいに目を細めた。
「してねーよだって日比谷と一緒にいたんだぜ。じゃなくて、おれやっぱりZって嫌だ。おれの名前って感じしない」
 でももう決まったことだから、と銀座が言い、そうだそうだと南北が乗った。丸ノ内が口を開いた先に、銀座が続ける。それより。
 彼はいつでも綺麗に笑う。
「日比谷と一緒だったの。日比谷は?」
「知らね。一緒に帰ってきてたのに、三越前で飛び出してった」
「また怒らせたの」
 しょうがないなあと眉を寄せた銀座に、鈍く首を動かす。傾げたような、否定するような角度で金髪が揺れる。「わかんない」
 三人は顔を見合わせ、南北は呆れたように肩の上で両手を広げた。処置なし。銀座は丸ノ内と目を合わせてから、半蔵門に視線を戻す。色の薄い髪がやわらかく頬に流れた。
「追いかけなきゃ駄目でしょ、半蔵門」
 追いかける。日比谷を。
 東武日光と話す日比谷の横顔を思い出す。伊勢崎にじゃれついて怒られながら、眼鏡をかけた薄い頬を眺めることに半蔵門は既に慣れていた。あ、睫毛長い。気付いた後に、でも日光は一生知ることはないんだろうなと思った。たとえ日光に怒られる半蔵門を、日比谷が責めるように見ていたとしても。
「だって、日比谷はおれが追いかけても嬉しくねーもん」
「そんなことは」
「そんなことはないぞ!」
 銀座の言葉を遮って叫んだのは、大人しくしていた丸ノ内だった。机を叩いて立ち上がった拍子に椅子が倒れる。大きな音がしたが、のこりの三人はあっけにとられて長身を見上げた。なにしろ背が高いので迫力がある。
 半蔵門。まっすぐに見つめられ、思わずはいと返事をする。
「おまえのZはヒーローのZだ」
 ヒーロー。その響きは無遠慮に少年のこころを熱くざわつかせた。
「Zはヒーローの名前につくって決まってるんだ。マジンガーZも、ドラゴンボールZもそうだろ?」
「ほんとうだ」
 それって関係あるの、と呟く南北の声はすでに耳に入ってこない。ヒーロー。その響きは少年の目を明るく輝かせた。
「だからおまえは日比谷のヒーローになれ」
 唐突に出された名前に、半蔵門が首をひねる。「なんで日比谷?」
 銀座がふふと微笑を漏らし、丸ノ内を見る。おだやかな視線の先で、丸ノ内は快活に笑った。
「ヒーローとは、困ってる人を助けるものだからな」
 うむ、と自分で言って頷いている。困らせてるのは半蔵門じゃんと頬杖をついた南北を、言っちゃだめだよと銀座がたしなめた。
 半蔵門はもう聞いていない。
 体をひねりながら立ち上がると椅子が倒れた。直す時間も惜しんで扉へ走る。
「どこにいるかわかるの」背中に届いた声が、紫のネクタイを引いて留めた。振り返った情けのない顔に、銀座は携帯電話をかざしてみせる。「ふふ、ヒーローのお手伝いしちゃおうかな」
 ずるい、とすかさず南北が叫んで椅子を倒した。





 急速に近付いてくる足音の間隔が少しずつ長くなり、ベンチのすぐ隣で止まっても、日比谷は視線を向けなかった。
「お待たせ、日比谷ちゃん」
 声で半蔵門だとわかった。来るならば彼だろうと思っていたのでさして驚かないが、その予想が諦観なのか期待なのか考えることは放棄していた。
 ただ彼が走ってきたことは意外だった。息が上がっている。走るのが仕事なのに、なまけているから。口には出さず思ったが、見境のない攻撃的な気持ちで自分も傷ついているので世話がない。
 横目で彼を一瞥し、正面に視線を戻す。03系が走り去っていく。帰宅ラッシュの過ぎた築地駅のホームに、人はまばらだった。
「待ってないよ」
「待っててくれなきゃ困る」
 半蔵門は大きく深呼吸をした。「ヒーローは遅れてやってくるって、言うだろ」
 わけわかんない、と口の中で呟く。
 電車から飛び出したとき、とにかく駅から離れようと思った。駅にいるといろいろなことが気にかかってしまう。時刻表通りに走っているか。構内は汚れていないか。駅員は適切な案内をしているか。普段は自然にしていることだったが、少しの間だけ全てを忘れて一人になりたかった。
 そう思ったのに、結局駅に戻っていたときには苦笑した。地下の駅には湿度の高い風が吹き、電車の走行音が地を這って響く。ここが一番、落ち着くのだからしょうがなかった。
 誰とも接続していない築地駅ホームのベンチに座り、ぼんやりと電車を眺めていた。自分を利用する乗客達には、疲れた顔をしたサラリーマンが休憩しているようにしか見えなかっただろうし、概ね間違いではなかった。誰かに会って無理に笑ったりすることも、半蔵門の名前を出されることも嫌でここに来た。その誰かは日比谷の代わりに怒ったり、労ったりしてくれるだろうから。
 嫌なのだ。まるで自分ばかりが苦労をしているようで。半蔵門が、自分には感謝もしていないことを教えられるようで。
 ああ疲れたおまえのこと探して走り回っちゃったぜと言いながら、半蔵門は日比谷の隣に座った。日比谷は相槌も打たずに、入線してくる電車の窓を瞳に映す。電車が人の流れをつくり、去っていくとホームは再び静かになった。
 半蔵門が言う。
「おれ、やっぱりZでいいや」
 表情筋がわずかにまたたいた。どうして。硬い声のまま聞いてしまう。
「Zはヒーローの名前だから」
「丸ノ内?」
「そう」
 日比谷は溜息をつくために、大きく息を吸った。丸ノ内め。息を吐いている日比谷の隣で、半蔵門は笑う。
「おれが日比谷のヒーローになってやるよ」
 むせた。
 げほげほと咳き込む背中を半蔵門が慌てて撫でようとしたが、撫でてもあまり効果はないし、なによりぞわぞわと肌が粟立つ感覚がしたので振り払う。振り払うための手を、逆に掴まれた。「日比谷ちゃん」
 顔が近い。驚いて咳が止まった。
「な、なに」
 半蔵門の顔は真剣だった。
「ヒーローに何して欲しい?」
 聞くのか。それを。
 特にと言葉を濁しても、腕の力は弱めてくれない。それどころか半蔵門はぎゅうぎゅうと日比谷の腕を掴んで、もう充分に近いのにさらに近づこうとするものだから、日比谷は顔を後ろに逸らして息が詰まりそうだった。
 やる気のある半蔵門の瞳は、たぶん初めて見る。
 来るならば彼だろうと思っていたのは、他に誰もいるわけがないという諦念か、彼が自分を必要としてくれるという期待か。答えはもうわからなかったが、期待してもいいのだろうか。ヒーローに、たすけを。
 閉じたくちびるがほころび、こぼれた。
「報告書のミスをなくす」「うっ」
「わがままも言わない」「うっ」
「勤務中に遊ばない」「ううっ」
 手を離した半蔵門はベンチにうなだれた。自業自得だ。掴まれていた場所をさすりながら続ける。「一人でなんにもできないくせに」
「だから日比谷ちゃんがいるんだろ? んで、日比谷ちゃんにはおれがいるってわけだ」
 顔を上げた半蔵門はそう言って、にやりと笑った。
 開いた口がふさがらない。半蔵門の相手は苦手だ。本当に、何を言い出すのか、まったく予想がつかなくて。
「……それで、できるの、半蔵門」
 半蔵門は大きく頷いた。
「ヒーローに任せろ、日比谷ちゃん」





  ◇





 頂点に近づいていく時計の長針と、二つ空いた椅子を交互に見て、銀座が微笑む。ミーティングを前にして、揃っていないのは日比谷と半蔵門の二人だけだった。
「今日はどんなお仕置きがいいと思う? 丸ノ内」
「そうだなー」
 楽しそうに話しはじめる二人を、やめてあげてと有楽町が止める。その隣で紙袋をかぶった新線は、廊下から聞こえる音に気付いて顔を上げた。
「だから伊勢崎をからかうのやめろって言ってるだろ!」
「だって日光のやつ本気で殴るとは思わねーじゃん!」
「伊勢崎以外にはいつも本気だよ日光は!」
 怒鳴り声の応酬が駆け足と共に近付いてきて、扉を開け放つ。「間に合った!」
 ぎりぎりね、と銀座は微笑んで、小さく続けた。残念。その呟きを聞いてしまった千代田は、今度はなにをさせるつもりだったのだろうと思う。前回は、二人揃って検車場で車両の清掃だったけれど。
 幸運にも銀座の呟きを聞かなかった二人は、慌ただしく席についた。汗をかいた日比谷の横顔を、おつかれと東西が労う。
「毎度大変だな、半蔵門引っ張ってくんの……」
「まあね。ありがと、東西」
 微笑まれた東西はまばたきをした。
「なんか、機嫌良いな日比谷」
「そう?」
 問い返しながら、日比谷の口もとの微笑は消えない。東西は首を傾げたが、銀座が会議を始めたので口を閉じて議長の方を向いた。
 日比谷も同じように会議に参加しようとし、一度後ろを振り返ってから、前を向いた。日比谷の後ろでは半蔵門が、火照った顔を書類で仰ぎながら銀座を向いていた。どしたの、と目顔で訊かれ、小さく首を振る。
 半蔵門は報告書に時間をかけるようになった。わがままも減った。勤務中に遊ぶのは、丸ノ内が誘っているからなので銀座から怒ってもらう。
 もう誰に何を言われても、日比谷は以前ほど気にならない。
 ヒーローは遅れてやってくる、から。



 たぶん。





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2015.05.23.
自分の路線記号がZなのが気に入らない半蔵門と日比谷の話。
にこいせ成分とにこ←ひび成分を含みます。

営団からメトロに変わったと同時に実施された駅ナンバリングで
初めて路線記号が決定されたという仮定で書いています(2004年4月)。
Zが東武と直通したのは2003年3月。
ご本家の最初の同人誌は2006年なので
いろいろ食い違っちゃうんですけどご容赦ください。