どんよりと曇った二月の日、暖房をつけないでいると部屋の温度は外気と等しく、山と積まれたチョコレートが溶けそうもない。
メルカトル鮎と書かれた三角錐のネームプレートの場所さえ奪い、机の上には所狭しとチョコレートが積まれている。素っ気ない板チョコから、限定ものに違いない凝った包みまで、ブランドの名前を挙げればデパートのフロア一階分では足りないだろう。バレンタインに心躍らす女子に紛れて、ヴァリエーションを求めて彼がいくつものデパートを渡り歩く様を想像すると笑みがこぼれた。
早速、包みの一つを手に取る。それぞれの菓子の意匠と自分の好みから口にする順序を考えるくらいの手間を、普段ならばメルカトルも惜しまなかったが、あまりにも量が多過ぎるために手当たり次第になることは避けられない。なにしろこれらチョコレートの、重さは六kgあまりにもなるのだから。
ジャンドゥーヤはナッツの香り高らかに、生チョコは舌の上でとろけて消える。いちごの味やグミが入っているものは元来苦手だったが、変化があるのがありがたい。小一時間頑張ったが山の先端が少し丸くなったかどうか、実は足元のダンボールにもぎっしり詰まっていたりする。オランジェットで口直しをしていたところで、美袋がやってきた。
「あ、もう届いたのか」
「今朝早くにね。君も食べるかい」
美袋はあっさりと首を振った。「いいよ、減っちゃうし」
「一粒減ったところで大して変わりないよ」
「そうかな。……そうだな。じゃ、一つ」
無造作に一つ手に取るとするするとリボンを解いて、中身を口に放り投げる。トリュフだ。お気に召したらしく、彼は機嫌よく笑った。
「おいしい」
「それは良かった」
メルカトルはさりげなく、彼がテーブルの上に戻した箱の中身をチェックする。一粒しか食べるつもりはないらしい。残りは五粒もあり、想像も容易いその味は既に口中いっぱいに広がっている。チョコレートを食べることに異論はないのだが、とそのトリュフを口に運ぶ。いかんせん飽きてしまうな。
どこの誰が確かめたのか知らないが、チョコレートの致死量は、体重の一割に相当すると言う。
「一つしか食べないなんて、食い意地の悪い君らしくないね」
「そう言うなよ。全部君のために用意したんだから」
「言ってくれるね」
慈しむような目で微笑まれ、次なるチョコレートに手を伸ばすのもやぶさかではない。血塗られるべき死因が銘探偵のそれはチョコレートとは、なんとも甘やかで都合よく、良い気分がするじゃあないか。ひとつ、ふたつと口に運んだ。正確な体重を知っていれば全て食べる必要もないのかもしれないが、あいにく体重計になど乗る習慣などないからわからない。彼が用意した甘く苦く毒のように脳を痺れさせる劇薬を、全て食べ尽くすまで終わらない。
殺して欲しいと望んだのはメルカトルであり、殺してやると思ったのは美袋であった。方法まではどちらも指定しなかったので、いずれ首でも絞められるか包丁で刺されるか高所から突き落とされでもするかと思っていたが、まさかチョコレートとは予想外。それでも昭子嬢と並んでテレビを見ているときにその砂糖まみれの殺意を知ったとき、ああこれは、とメルは思った。そして同時に美袋もその番組を見て、ああこれは、と思ったことを確信していた。
まるで誰かに囁かれたみたいにね。
「寒くないのか? メル」
美袋は言って、エアコンのリモコンを探す。寒くないよ、とメルは答えた。次々と送り込まれるエネルギー源を消費するのに忙しく、冷えた皮膚とは逆に体の芯はほんのり熱い。これが死ぬ予兆かと思えばどこか楽しい心地して、ふふふと笑えば美袋も笑う。カカオの香りは口内に満ちて味蕾を覆い、鼻孔を抜けて息まで甘い。二人で笑う空気も甘い。
これから自分の贈り物で死ぬ人間の体調を気遣うなんて、いったいぜんたいどういう神経?
「君は本当に面白いねえ」
指先についたチョコレートを舐めとって、メルカトルはしみじみと微笑んだ。「本当にね、おかげで飽きない人生だったよ」
「僕も」
と美袋も優しく微笑んだ。メルカトルに付き合って部屋の中でコートも脱がず、ポケットに手を突っ込んでマフラーをぐるりと巻いている。笑うとマフラーに半分隠れた唇の端がきゅっと持ち上がり、寒々しい部屋の中でなんだか明るい。
作っておいたショコラショーを持ってきて、表面を吹くと湯気が広がって視界を揺らし、湿らせる。飲むと際限なく甘い。その温かさがとろとろと食道を経て胃に落ちた瞬間、胃の容量を超えてひだが伸び、裏返るような感触がしたと思ったらえずいていた。乱暴に椅子を蹴って立ち上がり、トイレに駆け込む。衝動に逆らわず吐きながら、ああせっかく食べたのになあ、と呑気に思った。
「大丈夫か?」
気付けば後ろに美袋が立っていた。手早くマフラーもコートも脱いで、優しく背中をさすってくれる。ポケットに入れられていた手は温かい。その温度になんと言えばいいのかわからずに、切れ切れに荒い息だけを返した。目尻には生理的な涙が浮かぶ。吐き気はなおも止まらない。全て出してしまいたいのだが胃も食道も痙攣してしまいうまく吐けないでいると、美袋の手が喉元から伸びてきて、頬をさすり、人差し指が唇の隙間から奥に入った。
「ちょっとごめん」
背中から覆いかぶさった美袋の指が、メルの舌に触れ、喉の奥まで躊躇いなく進む。呻き声と涙と胃の中身が同時に出、小刻みに震えた肩をもう片方の手で美袋が撫でた。
「……すまない」
美袋の手を口から離させ、口の中の唾を吐き出してから、背後の彼を振り返る。
「手が、汚れたな」
内臓から震えて全身が寒くて仕方ない。これでは今日も死ねそうにない。美袋はにっこりと、やはり温かさを感じさせる顔で笑った。
「大丈夫、まだ汚れていないから」
確かにその手を汚したのはメルカトルの唾液、それから消化されかけのチョコレートのみである。血で汚さねば気が済まないと言うのなら、こちらとしてもまあ、付き合うのにやぶさかではない。
囁く声はうるさいが、そんなもの無視してなんら問題ない。メルは美袋ににっこり笑う。山と積まれたチョコレートの、残りは一体何キロだろう。
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2014.02.14.
二年くらい前にTwitterで見かけたチョコレートの致死量ネタで、
バレンタインの美メルです。
らぶらぶですよ。