海風すさぶ堤防に、学生服を着た男女が並んで腰掛けていた。膝の上に置かれた二人の手には百メートル先の自動販売機で買ったホットココアの紙コップがあったが、雪の降りそうな寒い日に、早くも冷え切っていた。
 同じく冷たい両手でコップを包み、ツバキ=ヤヨイは、隣に座るジンの顔を横目で見上げる。
 眼鏡の奥、長い睫毛に縁取られた緑の瞳は海の先を決然と見詰め、もとより白い頬は寒さのために、ますます無機質めいている。首に巻いたマフラーの他は彼の時間が動いていることを示すものはなく、端然とした姿勢とあいまって、人形のような印象をツバキに与えた。
 ツバキとジンが付き合い始めてから、来月で一年になる。
 幼なじみのジンに抱いた憧れが、恋情に変わっていたのはいつからだったか。知れず膨らみ続けたその想いは、士官学校の生徒会室で共に過ごすうちに、いよいよ胸に留めることができなくなった。
「ジン兄様、その……好き、なんです……」
 夕闇が表情を隠す放課後。聞こえるか聞こえないかの小さな声で、ジンの後ろ姿に呟いた。兄と呼ぶ憧れの人が、自分に振り向いてくれるわけがない。ツバキが綿密に張ったいくつもの予防線を、ジンは静かな歩みで乗り越えた。俯くツバキの頬に触れて上を向かせ、見せたのは柔らかな微笑だった。
「ありがとう、ツバキ」
 その夜、ジンはツバキをヤヨイ家の屋敷まで送り、額に唇を落とした。
 あれ以来ジンに触れたことがあっただろうか、とツバキはぼんやりと考えたが、わざわざ思い出す必要もないほどに、答えは明白だった。
 唇だけではなく、手も。腕も。淑女たれと育てられたツバキからは触れることができず、ジンからもまた、触れられることはなかった。
 けれど告白の翌朝、ジンはツバキを迎えに来た。その事実がツバキを支え、今も彼の隣に座らせる。キサラギ家から学校に向かうのとは別方向のヤヨイ家の門前に、朝早くから身だしなみを整えて、ジンは立っていた。おはようとはにかんで笑みかけられ、ツバキはようやく、彼と恋人になったのだということを了解した。
 それから、じき一年になる。
「別れよう、ツバキ」
 ジンにそう言われたのは数十分前だったが、予感は一ヶ月以上前から、二人の間に漂っていた。
 おそらくはラグナ=ザ=ブラッドエッジだ、と、やはりぼんやりとツバキは考えている。
「兄さんを殺しに行かないと」
 静かだが強い口調で、少し早口にジンは続けた。確固たる意志を湛えた瞳と微笑みの失せた口元があらゆる干渉を拒んでおり、初めてツバキは、幼なじみに生き別れの兄がいることを知った。
 ラグナ=ザ=ブラッドエッジは約一月前に公示された賞金首であり、来月には士官学校を卒業し、統制機構に入るジンは衛士として彼を追う筈だった。
「兄さんを殺しに行かないと」
 統制機構には入らず士官学校を退学し、キサラギ家も捨て、兄を追うとジンは言う。今、ツバキの隣から立ち上がればもう二度と、ここには戻らないと彼は言う。
「…………」
 何か言わなければと僅かに開いた唇は、言葉に迷って震わされただけだった。
 ジンとラグナの確執を、ツバキは知らない。断片的に説明された内容は的を射ず、なぜ実の兄を殺さなければならないとまで彼が思うようになったのか、ツバキにはわからない。兄も姉もいないツバキには兄を殺すということの重みを想像するしかできず、無機質なジンの横顔もまた、それを教えてはくれなかった。
 ツバキの見詰める先で、金色の髪にふわりと、白い粉が降り、消えた。
「ゆき……」
 手はコップを掴んだまま、ツバキは灰色の空を見上げた。ちらりちらりと白い雪が、青い瞳に映る。その落ちるのを追って視線を下げると、空同様に鈍色の海が、雪を飲み込んでいく。
 ツバキの声に反応してジンも僅かに視線を動かしたが、緑の瞳に感情が浮かぶことはなかった。階層都市トリフネの気象は士官学校高等部生徒会によって管理されており、その故障を示す雪は生徒会長であるジンの仕事が増えたことを示すものだったが、それはもはや彼にとって何の価値もない情報のようだった。
 ぶるりと、寒さゆえにツバキは体を震わせる。
 すぐ隣に座っているというのに、ジンの体温をツバキは知らない。きっと冷たいだろう。体温が低いというよりも、陶器に触れるような冷たさを思う。
「……そろそろ帰ろう、ツバキ」
 落ち着いた声でジンが言い、堤防の上で立ち上がる。動きに釣られ、半ば無意識に彼を見上げた。見慣れた、けれど見飽きることはない端正な顔立ち。見蕩れるでもなく茫洋と眺めたまま立ち上がることを忘れたツバキを、不思議そうにジンが見詰める。
「ツバキ?」
 澄んだ緑の瞳がツバキの瞳を真っ直ぐにとらえ、傷ひとつない綺麗な手が目の前に差し出された。促されるまま、ツバキはその手をとる。
 冷たい手。けれど重ねたてのひらの芯にはまだほのかな熱があり、ツバキの手を柔らかく押し返した。
「あ……」
 目を大きく見開いて、ツバキは重ねたジンの手を見詰めた。
 これは人形の手じゃない。理解できない人外の手でもない。十八年間生きた人間の、ツバキの慕った兄の手だ。
 彼の隣で過ごしたこの一年、そして出逢ってからの十年あまりが脳裏を駆ける。
 ツバキには優しい兄だった。仮初ではあったけれど、充分甘い恋人だった。強く正しい彼は、いつだってツバキの大事な人だった。
 ――行かせてはならない。
 彼の兄を、彼のこの温かい手で殺させてはならない。
「ジン兄様……ッ!」
 紙コップを虚空に放り出し、両の手でジンの腕を強く掴む。驚いたジンの瞳も見開かれ、無機質な雰囲気が霧散する。歳相応に幼い顔に、ツバキは泣き出しそうになる。いつも大人びた顔をしている彼がこんな顔もすることを、ちゃんと知っていたはずだったのに。
「兄さんを殺しに行かないと」
 彼が自覚しているかどうかは怪しかったが、兄さんと口にするときのジンの唇はかすかに震えていた。僅かに上擦る声からは、愛情すらも感じ取れた。瞳には喜色がかすめた。
 どれもツバキの知らないジンだった。怖くて目を背けた。諦めて理解を放棄した。兄への殺意を口にする青年を、ツバキの知らない誰かだと思いたかった。
 ツバキは間違ったのだ。
 この手をとった今ならわかる。見せてくれた全てがジンだ。ジン=キサラギ。ツバキの大事な、大好きな人。
「ジン兄様、お願い……っ」
 行かないで。
「ツバキ!」
 絞り出すような声は、再び硬く戻ったジンの声に遮られた。
「離してくれ」
「……」
 ツバキは離さない。皺ができるのも構わずジンの制服の袖を掴み、手を握り、凛と見据えて逸らさない。ジンが睨み、低い声で名を呼んだが、ツバキは決して怯まない。
 海風がツバキの髪をはためかせ、ジンの頬を打ち、マフラーを攫う。その行く末を見ることもなく、緑と青の瞳は睨み合い続ける。





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2014.04.15.
ジンラグ好きかつジンツバ好きです。
ジンツバだしラグナ出てこないけどジンラグ前提のジンツバ別れ話。
初めてちゃんと書いたジンツバが別れ話でごめんねツバキ。