レジに飾られた赤い花を見て、もうそんな時期かと思い出す。レジの横に置かれていたカタログを店員に手渡し、一緒に袋に入れてもらう。
「何を渡してたんだ」
レジの向こうで会計が終わるのを待っていたメルが尋ねる。中身を分けた袋の一方を渡そうとすると、私の左手のもう一方をひょいと掴んだ。勿論そちらの方が軽い。舌打ちした私を見て、メルはにやりと笑う。
仕方なく、そのまま並んで歩き始める。今日は私の家でカレーだ。
「母の日のプレゼントのカタログ。来週だからさ」
大学に入って一人暮らしを始めてから、実家へのプレゼントはいつもコンビニやスーパーのデリバリーで済ましてしまう。元来親孝行な方ではないので、イベント当日に贈り物が届くだけマシになったとも言える。
「ふうん」
メルは素っ気なく答え、袋を持ち直した。
メルの口から家族の話を聞いたことはない。私や他の仲間達が親の愚痴をこぼしたりするとき、彼は常識的な立場で――つまり私達の親と同じ立場から、私達を諌めることがほとんどだ。私達への共感を示したことはない。
それに、メル自身の幼い頃の経験が語られたことも、私が記憶している限り一度もない。誰かが家庭であったエピソードなどを話すときには、いつも通りのシニカルな笑みを口元に浮かべ、饒舌に茶々を入れるのに、だ。
もしかすると、彼には既に母も父もいないのかもしれない、と私は感じていた。彼は何も話さないので、詳しいことはまるでわからないけれども。
『心配してくれるだけありがたいと思いたまえ』
いつのことだったか、小説家を目指す私に対して、まともな職に就けと説教を繰り返す親への反感をぶちまけたとき、メルは静かな笑みを湛えてこう言った。皮肉げに歪められた口元に関わらず、その目元は思わず黙ってしまうほどに寂しかった。
あれ以来、メルの前で家族の話をすることに、妙に気後れしてしまう。
カレーを作るのは私の役目だ。普段は料理上手なメルが作ることがほとんどだけれど、簡単だから君でも作れるだろうというメルの口車に乗って以来、カレーだけは私が作る決まりになっている。
台所とも言えないような狭い調理スペースに立って腕まくりをする。ちらりとリビングを見ると、メルは既に座って私の本棚を物色していた。
野菜と肉を切り、カレールーの箱に書いてある通りの順番に炒る。タマネギを切ると涙が出てきて、手際が悪いからだとメルに笑われた。
具材に火が通ったら、鍋に水を入れて中火にし、手を洗ってリビングに向かう。
「おや、もう出来たのかい」
訝しげにメルが見上げた。立ったまま私は答える。
「いや、まだ。ちょっと煮込んでからルー入れて、またちょっと煮込んで完成」
「キーマカレーが良かった」
「そういうことは作る前に言ってくれ」
ちょっと拗ねたような口調で言われても困る。
ふとメルの手元に視線を落とすと、本を読んでいるとばかり思っていた彼は、さっきスーパーで手に入れたカタログを開いていた。
ぺらり、と薄っぺらい音をさせてメルがそれをめくる。どう見ても上滑りしている視線が空疎だ。なんだかたまらない気持ちになって、私はつい口を滑らせていた。
「なあメル、どれか選んでくれよ」
「どれか、って」
片眉をあげて、メルが戸惑いを示した。
「僕が選ぶとセンスがないっていつも怒られるんだよ。君、選んでくれよ。なんでもいいからさ」
「……予算は」
「え、えっと」
三千円くらいまでなら、と私はしどろもどろで答えた。こういうのは相場がわからないが、三千円あればなんとかなるだろう。自分で選ぶときにはもう少し低めの値段を想定するだろうが、私だって見栄を張る。
なんでも好きなものを選べ。
「わかった」
驚くほど真摯な声音で頷いて、メルはもう一度カタログに視線を戻した。開いていたページは中央に近かったのに、最初から見直している。今度はじっくりと吟味しているようだ。その熱心さに安心して、私は鍋の前に戻り、ルーを投入した。
カレーの香りが部屋に満ち、私達の満腹中枢を刺激する。今日はメルの好きな辛口だ。
五月の第二日曜日、すなわち母の日の翌日。授業が終わり、帰ろうと席を立ったメルを呼び止める。
「あ、メル」
なんだい、と目顔で問うメルに微笑む。
「この前はプレゼント選んでくれてありがとな。母さん、喜んでたよ」
昨夜、珍しく実家から電話がかかってきた。プレゼントありがとうと母が声を弾ませ、久しぶりに会話が弾んだ。
「彼女に選んでもらったの?」
「違うよ」
と笑って答えながら、私はメルを思い出していた。メルが選んだのは、カーネーションの花束だった。
「君が花を選ぶなんて意外だな」
「ほう、そうかい?」
「だって花は散っちゃうだろ。君は不動産とかばかり欲しがるから、後に残るものを選ぶと思ってたよ」
私が言うと、メルはふんと鼻で笑った。
「わかっていないね。女性にはいくつになっても、花を贈るのが一番効くんだ」
はいはい女性経験豊富で羨ましいことですね。嫌味を言うと、それを無視して「それに」とメルは続けた。
「どうせ君は、母の日に花を贈ったことなんかないんだろう」
「――― 忘れたけど、そうかもね」
きっとメルは母の日にカーネーションを贈ったこともないのだろう、と思い、その考えはすとんと私の腑に落ちた。
彼がどんな幼少時代を過ごして来たのか、私は知らない。きっとこれからも知らないまま、彼との付き合いは続くのだろう。
来年も、再来年も。私は知らない顔で彼にカタログを渡してやろう。選んでくれと言えば今度こそ何か見返りを求められるかもしれないが、そのときは喜んで付き合ってやる。
何も言わない彼に同情するのは間違っているのかもしれない。だからこれは同情じゃない。私のためにしているのだ。
だって淋しげなメルカトルなんて、私は見たくない。
「なあメル」
学生の群れに溶けこみゆく彼に言う。騒々しいバックグラウンドミュージック。私の声は彼を立ち止まらせるのに成功した。黒い背中に声を投げる。
「ありがとう」
今日もタキシードの銘探偵は、シルクハットの鍔に手をやり、軽く会釈をした。
その口元は、小さく微笑んでいた。
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2012.05.13.
母の日で美メル。
学生時代。大学二年生くらいを想定してます。
母の日のメルを考えると辛いです……。
美袋くんにはこんな風にメルの絶望を救って欲しいなと思います。