※R-18





 時間が消えていくような感覚を、月の周回軌道上ではいつも覚える。
 巨大な宇宙船の先頭にしつらえた艦長室の壁は一面がディスプレイになっていて、戦闘時以外はそこから外を眺めるのが常だった。漆黒の闇が広がるばかりの宇宙空間に身をおいて、さらに時間と空間の位相転移を繰り返すアバンには朝も夜もない。なのにこうして月を眺めて良い夜だと感じているのは、遠い記憶の残滓だろうか。
 机に足を乗せてふんぞり返り、体重をかけて反らせた椅子をぎしりぎしりと揺らす。照明を落とした中で、瞬くのは操作盤と星と敵。ちかちかと光っては消え、消えては光るそれは、この艦では子守唄になる。瞼が閉じるのに逆らわず、うつらうつらと長いまばたきを繰り返す。思考は既に止まり、目に映るものを見ているとはとても言えない。
 あと数度繰り返せば、眠りに落ちてしまう頃だった。瞼を開けると、机の上にあぐらをかいた男がアバンの顔を覗きこんでいた。
「……!」
 転がり落ちるように椅子から立ち上がる。実際に転がる無様を見せなかったのは日頃鍛えている成果だろう。突如として現れた不可思議に後退りたい欲求と、彼に触れたい欲求が相殺し、体は筋肉の収縮により震えたまま一歩も動けない。眠りに向かい閉じようとしていた目は、恐怖とも渇望ともとれる光を宿してぎらぎらと昏く輝き、ひたむきに男を見詰めた。
 いや、青年と呼ぶべきか。未発達の筋肉を晒す上半身に、赤いマントを無頼に羽織る。幼さの残る顔立ちを隠す、青い派手なサングラス。自分を大きく見せようとしているのが、却って子供らしく映る。
 親指でサングラスを押し上げて、にっと笑う。その笑顔に見入り、見惚れた。手足が震え、瞳孔が開く。数多の敵が宇宙に広がる光がうるさいくらい瞬いて、乾いた目に痛かった。震える唇を開いてその名前を呼ぶ。彼が名乗るまでもなく、その名はアバンの魂に刻まれていた。
「カミナ」
 声は掠れて、彼に届いたかわからない。こんなみっともない声が彼への第一印象になるくらいなら、いっそ届かない方がましだ。なにしろ彼は出逢うはずのなかった男。呼べるはずのなかった兄。惹き合うはずのなかった月。
「よう、兄弟」
 陽気に笑いかけられ、失神しそうな意識の中で、アバンは思う。
 ああ、なんて良い夜だ。











 この世界はまずは一つだった。
 最初の世界にはシモンがいて、カミナがいて、ヨーコがいて、ニアがいた。ロージェノムが獣人を使って支配していた地上を大グレン団が解放し、アンチスパイラルからは宇宙すら解放した世界。
 アンチスパイラルの多元宇宙迷宮は、知性に無限の可能性を見せた。シモン、ヨーコ、ブータ、ヴィラル。大グレン団が夢見た可能性はいくつもの平行世界を生み出した。
 その一つがこの宇宙だ。ここではシモンは宇宙艦隊大グレン隊の隊長アバン。紺地のマントには金糸の縫い取り。長い裾をはためかせて腕を組み、眼前に広がる宇宙を睨みつける。
「天の光は全て敵!」
 そう断じては数多の光をグレンラガンで薙ぎ倒し争いを繰り返す。
 いつも冷静な、そうまるでロシウのようにアバンの右腕となり左腕となるブータが、高揚を滲ませた顔で言う。
「艦長、今日も我が隊の勝利です」
「当然だ。俺を誰だと思ってる」
 アバンはアバンだ。
 シモンではない。この世界のシモンとしてあるのに、決してシモンではない。
 この世界にはカミナがいない。ヨーコがいない。ニアがいない。シモンをシモンたらしめた人たちがいないので、ただアバンと名乗っている。その名を全宇宙に轟かせ、全宇宙を敵に回し、全宇宙から略奪する。
 この宇宙のシモンがアバンである限り、カミナが現れるはずがない。
「んなこと言っても現れちまったものは仕方ねえ。認めてくれよシモン隊長」
「……俺はアバンだ」
 カミナは机の上で大きくあぐらをかいたまま、林檎に齧りついている。しゃりしゃりと音に空気に香気が混じり、まるでカミナから匂い立つようにかぐわしい。先日応戦した空母からせしめたそれは、木箱の中で宝石のように輝いている。カミナのマントと同じ赤色が鮮やかに、無機質な部屋を彩る。突然現れて腹が減ったと主張するカミナに、似合いの果実。
「おい、シモン」
 すぐ目の前にカミナの顔が突き出され、ぎょっとして顔を引く。
「どうしたんだよ、えらい顰めっ面して」
「元からだ」
「ははっ、ロシウみたいなこと言うなよ」
 カミナは快活に笑う。気が済んだのか、また林檎を齧ろうとするのを険しい声で止めた。
「待て、今、ロシウと言ったか。あんたの世界にはロシウもいたのか」
「当然じゃねえか」
 カミナはふと首を傾げる。
「ここにはいないのか」
「……いない」
「へえ。そんな宇宙は始めてだ」
 さり気なさを装って言うカミナに、アバンはがたりと立ち上がる。
 カミナは多元宇宙を知らない、そのはずだ。だってアンチスパイラルと戦う前に、カミナは死んでいるんだから。
 ずきんと心臓が痛む。おそらくは最初のシモンと同じだけの強さで。
 なぜアバンが他の宇宙の存在を知っているのか、多元宇宙の生まれたわけを知っているのか。理由は簡単で、そういう宇宙もあるだろうと、最初のシモンの知性が考えた。『もし』とか『たら』とか『れば』とか、そういう可能性でアバンの宇宙はできている。
 一方でカミナの脳内に多元宇宙を創出するカミナの知性はとっくの昔に死んでいて、だから多元宇宙に存在するカミナは全てシモンやヨーコやキタンが認識した彼に他ならない。偶像であるカミナが多元宇宙を渡ることなどできないはずだ。
 でもカミナは一人でアバンの前に現れた。すべからく敵である明滅とアバンを遮り、不敵にサングラスを光らせて。
 では偶像ではないカミナは?
 分厚いコートで空気から遮られた肌に毛を逆立てる。ぞくぞくと悪寒にも似た何かが背中を駆け、アバンの頭に一つの可能性を植え付ける。
『もし』とか『たら』とか『れば』とか、あんたはどれも嫌うだろうけど、とアバンは思う。けれでもアバンにはそれしかないのだ。
「なあ、あんた、一つ教えろ」
 今度は声が震えない。ん、とカミナがアバンを見返す目が、弟を見るように優しい。
「ダイガンザンはもう倒したのか」
「――明日だ」
 絶望的な事実を告げる声は、この宇宙で初めて聞く優しさに満ちていた。それから自信と誇り。まるで自分がそうすることが世界を救うとでもいうように。そんなぺらぺらの軽い体を賭して、救える世界がどこにある。頭に血が上り、鳥肌は消えた。カミナのマントを両手で掴んで引き寄せながら、足は彼を机に押し付ける。強かに腰を打ち付けたカミナが呻くが、その声はアバンの動きを止めるに足らない。
「なんでこんなところにいるんだ」
 低い声で凄んだ無敵艦隊の隊長アバンの形相にカミナは目を瞠り、眉を顰め、それからアバンの手にその手を添える。静かな力がアバンの激高を削ぎ落とし、凪いだカミナの目をそれ以上見られなくなって目を逸らした。
「――目が覚めると違う宇宙にいた」
 カミナが口を開く。意気揚々と啖呵を切るのが得意な筈のカミナの声が、落ち着き払って語り始める。
「人間は最初から地上に住んでいて、平和で、お前はまだ生まれたばかり、俺は近所のガキだった。最初おまえは愛想が悪かったけど、すぐに懐いて、カミナカミナって追いかけてきたんだぜ。……しばらくすると俺はまた他の宇宙に移る。その繰り返しだ」
「……他の宇宙でもあんたは死ぬのか」
 さあな、とカミナははぐらかす。それから不意に顔を上げ、明るい声を作る。
「一番傑作だった宇宙ではおまえが漫画家、俺は小学校の先生なんだ。えーっと、ガキにいろいろ教えるんだよ。どいつもこいつも可愛くて……」
「だったらどうしてずっとそこにいなかった!」
 まだカミナのマントを握ったままだった手に力が入る。カミナは今度こそ驚いてアバンを凝視する。
「……泣くなよ」
 気付けば下瞼に涙が溜まり、溢れた雫が頬を伝う。拭うために手を離したのを幸いと、カミナがアバンを首に手を回す。抱き寄せられた。裸の胸が熱い。興奮状態になった全神経は鋭敏になり、とくとくと鼓動の音まで聞こえそうだった。
「なあ、シモン」
 カミナは呼ぶ。その声が耳のすぐ横から聞こえることが衝撃的過ぎて、俺はアバンだと言い返せない。常ならば警戒を怠らず、体に触れられるのを何より嫌うアバンが腑抜けのようにカミナの腕に抱き締められていた。
「だって俺が帰らなきゃみんな困っちまうだろ」
「……馬鹿だ……」
 馬鹿だ馬鹿だと思っていたけど本当に馬鹿だった。だって帰ったらあんたは死ぬんだ。左の腹からどくどくと赤い血を流して。
 あんたを殺す宇宙なら滅んでしまえ。
「帰るなよ」
 カミナの背中に手を回し、そのマントをぎゅうと掴む。柔らかそうな肩甲骨がその裏に感じられた。マントで誤魔化していたけれど肩幅は小さく、アバンの腕の中にすっぽりと収まる。
 こんな小さな体を兄と見上げた思慕がこの青年を殺してしまった。多分死ぬべきは俺なのだ、あるいは最初の。あんたが死ぬ運命なんて間違っている。
「ここにいろよ――ずっと。特等席で惑星が見られるし一番美味いものを食べさせてやる。グレンラガンだって操縦していい」
 頬を涙が伝う。拭うための手はカミナを抱きしめていたかった。こんなに温かいのに明日には冷たくなってしまう。そんなことが許されてなるものか。
「頼むよ。帰らないでくれ」
 アバンの脳に多元宇宙は生まれない。このままカミナが残る宇宙をいくら鮮明に描いても、実現しないそれは心を冷やすことしかしない。
 カミナは応えなかった。抱き合ったまま、アバンの涙は止まっている。鼻をすんと鳴らすと、カミナの匂いがした。互いの鼓動の音だけが聴覚を占め、目は外界を拒絶するように閉じている。コールドスリープから目覚めたばかりの子供のように、互いの体で温め合おうとじっとしていた。
 一枚の静物画のようなその光景を見た者がいれば、体も顔立ちも大人であるアバンがカミナを癒しているように見えただろう。けれどその実、あやしているのはカミナの方だった。兄と弟。年齢や体や宇宙すら変わっても、その関係は変わらない。
 このまま彫刻のように固まればずっと二人でいられるだろうか。そんな夢想を破るように、カミナの声が耳元で言う。
「……すまん」
 重い声と言葉は最後通牒にも等しかった。涙袋に溜まっていた最後の涙が頬を落ちる。諦めがじっと体を満たしていくのを待った。とくとくとカミナの心音が心地よい。いくつもの宇宙を渡ってきた心臓。
 欲しい、と思った。これまでいくつもの船を宇宙の塵と化してきたアバン隊長としてではなく、おそらくは体に残る最初のシモンの記憶がそう思う。この血もこの心も全ての多元宇宙のシモンと同じだ。けれどカミナが現れる筈のなかった、この宇宙のシモンが最もカミナに飢えている。カミナが欲しい。
「カミナ」
 腕を解いてカミナと目を合わせると、涙の跡にカミナが笑う。どんなに戦いで損害を出しても、何人の部下が死んでも血潮をたぎらせることはあっても泣くことなどなかったのに、こんなにも涙を流すなど照れくさい。顔に血がのぼっているのがわかるので、きっと赤くなっている。そんなアバンの様子に嬉しそうにするカミナの拳が、左胸に当てられる。
「アニキって呼べ」
「呼べない。俺はアバンだから」
「おまえはシモンだ。俺の自慢の弟分だ」
 眼の奥を覗きこまれ、アバンからもカミナの瞳がよく見える。きらきらと光るカミナの瞳孔は宇宙の果てより綺麗だ。また涙が頬を伝い、泣き虫だなあとカミナが笑う。よく笑う人だ。シモンがずっと知っている通りに。
「……アニキ」
「おう」
「……っ、アニキ!」
「おう!」
「俺、アニキが欲しい」
「……うん?」
「抱いていい?」
 勢い良く体を引き剥がされる。顔を赤くしたカミナが、酸素が足りないのか口をぱくぱくと開け閉めする。可愛い。
 キスをしたら殴られた。
「だめなのか? アニキ」
「だめに決まってんだろ!」
「俺にはアニキがいないんだ。ニアもヨーコもロシウも誰もいないんだ。お願いだよアニキ。少しの間だけでいいから俺だけのアニキになってくれ」
 死ぬ前に、と続けるとカミナは黙る。こうやって同情に訴えるなんて卑怯だとわかっていた。けれどそうやって誰にも無尽蔵に優しいからあんた死んでしまうんだ、とアバンの目からまた涙が落ちる。拭って笑うカミナの顔がやはり赤い。諦めたように溜息を吐いて、覚悟を決めた顔で陽気に笑う。
「いいぜ」
 お許しが出たらもう、我慢なんてできるわけがなかった。





 繊細な銀細工を扱うようにベッドに横たえ、そのふかふかとした感触にカミナが驚いている間にまたがる。キスをすると彼の口の中は温かく、裸の胸は汗ばんで掌に張り付いた。指の背と腹、掌の広いところを使い分けて丁寧に愛撫し、唇と舌で熱を分けていく。
「おっおい、なんかくすぐったいぞ」
 慌てた声が頭上から投げられ、片腕を突っ張って頭をぐいと押しのけられる。むっとして顔を起こし、文句を言おうと開いた口をそのまま閉じた。
 カミナの顔は真っ赤だった。マントにも林檎にも匹敵するほど。
 戦いに明け暮れてきたアバンの脳が性欲と食欲とを混同し、口内に広がる唾をごくりと飲む。それでもなお次々と溢れる唾液をカミナの胸の突起に垂らし、舌の先で転がした。
「……ここも?」
 アバンの髪を掴む手の震えと、きつく閉じようと試みている唇から漏れる声が答えだった。
 喰らいつくようなキス。労るような愛撫。肌に記憶させるように執拗な前戯。
 カミナは腕で顔を隠し、シーツを掴んで体の跳ねるのを抑え、唇を噛んで声を殺す。声が聞きたくて何度も「気持ちいい?」と聞くけれど、小刻みに首を振るばかりでとてもじゃないけど答えにならない。顔を隠すカミナの腕を掴んで外したところに、すかさずキスをして舌を入れる。そのまま開いた口に人差し指を突っ込んだ。
「んっ、ううっ?」
「声聞かせてよ、アニキ」
 覗きこむとその目には少し怯えが混じっている。初めてなのだから仕方ない。なんだか胸がいっぱいになって、優しくしよう、と誓う。安心させるためににっこりと笑いかけた。
「俺の指噛んでもいいから」
「っこいつ……」
 カミナの顔が引きつってこめかみがひくひくと動く。そういえば後ろの穴をほぐすのが途中だった、と思い出してもう一方の指でそこに触れる。短く漏れたカミナの声が可愛い。頑張ろう。
「アニキ、気持ちいい? ここがいい?」
「いちいち聞くんじゃねえ……!」
 それが舌足らずに聞こえるのは、口に入れたアバンの指を噛まないように、カミナが注意して発音するせいだ。
 大事にされていたんだな、このカミナにとっての、最初のシモンは。
「ははっ、ちょっと妬けるね」
 なにを、と問う声には答えない。挿れるね、と宣言して一気にアバン自身でカミナを穿つ。問うまでもなくこんな行為に及ぶことが初めてのカミナが痛くないように充分ほぐしたつもりだったが、それでもカミナは苦しそうに荒く息を吐く。その様子が愛おしくてカミナの中に入ったアバンが膨らみ、慌てふためいたカミナが息をする間もなくさらに侵入する。内壁の締め付けがきつい。首を反らせたアニキはいやいやをするように首を振る。もうアバンの言葉なんて忘れてる。
 それを見ながら薄く笑った。我ながら、カミナには見せられない酷薄な笑みを、よくも自然にできるようになったと思う。
 違う宇宙の違う自分に嫉妬する。こんなところにアバンをひとりぼっちで生み落とした、多元宇宙を作った最初のシモン。おまえなんかに、カミナをくれてやるものか。この熱も声も自分のものだ。おまえはカミナに触れることもキスをすることも、ましてや抱くことなんて絶対にできない。
「ねえアニキ、こんなこと向こうの俺としたりしないよね?」
 動く度に水音が響く。わざと大きな音を立てて煽った。俺のことで頭をいっぱいにして欲しい。もう他の宇宙のことなど考えないで。
「するわけないよね、可愛い弟分だもんね」
「お……っまえ」
 目尻を真っ赤にして、獣のように荒い息を必死に整えながらカミナが呻く。ん? と見つめようとした瞬間、アバンの額にカミナの額が激突した。
「いってえ……何すんだよアニキ!」
「頭突きだ!」
「わかるよ!」
 ずきずきと痛む額を二人して押さえて向かい合う。まさかこの体勢のまま腹筋だけで起き上がるとは、全く予想していなかった。不覚だ、と戦いの中に身をおいてきた癖で反省していたアバンを、カミナが睨む。
「おまえ、俺がなんでこんなこと許してるかわかってんのか」
「え……、俺が『シモン』だからだろ?」
「そうだよ」
 カミナは赤い顔で、ぎん、と上目遣いにアバンを睨む。
「同情なんかじゃねえ」
「ああ……」
 まさに同情だと思っていたアバンは、呆然としてカミナを見詰めた。
 カミナはいつだって『シモン』に正しい言葉をくれる。
 おまえが信じるおまえを信じろ。
 これまでどんなときだって自分一人を信じて生きてきた。小さな船で宇宙に乗り出し凶暴な宇宙生物の巣に入ってしまったときも、増えてきた部下と共に宇宙警察に追い詰められたときも、M82銀河を仕切っていたスペースマフィアとのギャンブルで身ぐるみはがされそうになったときも。誰から尊敬や憧憬や賞賛を受けても、その反対にどんな罵倒や暴力や理不尽を受けても、自分を信じていればそれだけで充分だった。
 でも彼に愛されるシモンであれたら、どんなにいいだろうと思っていた。
「ったく、本当にわかってるのかよ」
 ぼんやりとした反応しかしなかったからだろう、両頬をカミナに掴まれ、顔を逸らせないように固定される。そのまま引き寄せられるように近付いて、至近距離で睨まれた。真っ赤な顔で、多分照れ隠しの睨み方。
「この宇宙のシモンが好きだって言ってんだよ」
「えっそれ初耳なんですけど」
「今言ったからいいだろ!」
「よくないよもう一回言って!」
 繋がったままぎゃーぎゃーと騒ぐ。色気も何もあったものではない。でもそれが無性に嬉しかった。まるで彼と日常を過ごしているみたいで。
 カミナが手に入るなら、これまでの孤独なんて安いものだとすら思う。
「毎日こうしてたいよ」
「……馬鹿言うな」
 カミナがさっと目を伏せる。それに傷つくより早く、彼を傷つけてしまったと後悔が先に立つ。
「うん、そうだね。ごめん」
 微笑んでカミナの髪を梳き、再びベッドに寝かせて訊いた。
「続きしていい?」
 カミナはこくりと頷いた。











 目が覚めると既にカミナはいなかった。
「……もう行ったのか」
 わざわざ死にに、行ったのか。
 続け様に三度もして、四度目を始める前にカミナが意識を飛ばしたまま眠りに落ちた。その無防備な寝顔をずっと見ていようと思ったのに、いつしかアバンも眠ってしまったようだった。
 不覚だ。けれど彼が消えていくのを、きちんと見届けられるかどうかわからなかった。
「……さむ」
 ベッドの横に脱ぎ捨てられた服を着直し、マントは肩に羽織ってベッドの縁に座る。一人きりの体温を、肌寒く思う日が来るとは思わなかった。ずっと一人で寝ていたベッドを、広く感じる日が来るとは思わなかった。
 深く溜息を吐き、ディスプレイに視線を向けると、眼前に広がる月面。
 アバンの指示を待ち、宇宙船は相変わらず月の周回軌道に乗っているのだろう。太陽の光を反射して、凹凸の多い球体は鈍い銀色に光る。宇宙の暗闇を照らすには弱いけれど、こうしてアバンの孤独を癒やすことはできる。ひとつひとつのクレーターの名前を知らなくても、そこに模様を見出すことのできるのと同じように。
 何も考えずにぼうっと眺めていた。
 緊急信号も船員からの連絡もなく、艦長室は静寂に包まれている。記憶する限り常に臨戦態勢であったアバンの体と心は、不思議なほど凪いでいた。体の底から突き動かすような戦闘意欲はひっそりと失せ、今なら敵が攻めてきても恩赦を与えてもいい、と本気で思った。
 ゆっくりと月が遠ざかる。遮るものなく開けた暗闇の中で小さくなっていくそれが、ぽっかりと宇宙に開いた穴のように見える。ブラックホールが全てを吸い込む穴だとしたら、月が全てを吐き出すとしても不思議ではない。その宇宙に要らなくなったものを他の宇宙に送り出す穴。
 カミナは多分、この宇宙での役目を果たしたのだ。
「……?」
 頬を温かいものが伝っているのに気付いて手で触れると、液体が指を濡らした。無色透明なそれを無感動に見詰め、舌の先で舐めると塩辛い。
 涙か。
 今日まで泣いたことなどなかった。これからもきっとないだろう。――今日だけ、カミナがいたこのときだけだ。
 目尻に溜まった涙を指先で拭い、瞬きをして焦点を合わせる。一度、浅く息を吸って、吐く。もう一呼吸する間もなく、ディスプレイが切り替わって無数の戦艦がこの船に向かう様を映し出した。赤、黄、緑。色とりどりのネオンがきらめく宇宙は青く光りながら津波のようにこの船に押し寄せる。操作盤が一斉に赤く光り、スピーカーからは部下の叫び声が飛び込んだ。
「大将、次元大幕府の奴らです!」
「応戦しろ!」
 操作盤に飛びつき、マイクのスイッチを入れて怒鳴る。ついさっき訪れた穏やかな気持ちなど、既に次元の彼方に飛んでいた。
 全身の血が沸き立ってアバンの体を駆り立てる。震えるほどの興奮が目をぎらぎらと光らせ、口角を上げて凶悪に笑わせた。いいかてめえら、とドスをきかせた低音には戦いに挑む歓喜が滲む。
「いいかてめえら、殲滅だ! 一人たりとも逃したら承知しねえ! 全て塵にするまで休むんじゃねえぞ!」
 その一声で、寝静まっていた宇宙船が瞬時に目覚めた。空気が引き締まり、眠っていたものも飛び起きて総員が戦闘配置につく。船首ではメールシュトレエム砲がチャージされ、照準はぴたりと敵の戦艦に合わせられ何があってもずれることはない。船内では、もしも相手が逃げた場合に宇宙の果てまで追いかけられるように位相転移の準備が着々と進む。
 間違いなくこの宇宙で一番の戦艦を、作り育てたのは他でもないアバンだ。その自負がアバンにはあり、その誇りが隊員の士気を支える。
 マイクが呼吸の音が拾うほど大きく息を吸い、一息に言う。
「俺を誰だと思ってやがる!」
 さよならアニキ。俺は今日からシモン=アバンと名を変えて、あなたのいないこの宇宙で生きていきます。





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2013.9.19.
「月の命題」と同時並行で書いたおはなし。
ところで私の中で今SFが大変熱いのです。
そもそもグレンラガンはSFとしても面白いのですが、
ドラマCDでメタ視点を持っていることが明らかになった、
宇宙で暴れまくっているらしいアバン様は特に楽しいです。