例えばこんな日常。





 ばーん、と勢い良くドアが開け放たれた。すわ依頼人か、と思ってこちらも負けじと勢い良く振り返ると、目に飛び込んできたのは琴宮だった。見たのは私なのだから「目に飛び込んできた」というのは相応しくないかもしれないが、この人はそれくらい傍若無人なのだ。
 今だって、ドアを閉めようとしている私の足を払って転ばせてまで事務所に入ろうとしたのはこの人だ。坂本師匠の教えがなかったら、腰を打って入院しているところだ。  はっ、まさかそこまで計算のうちなのだろうか。名探偵琴宮、どこまでも恐ろしい人だ。
「って何しにきたんですか!」
 いつまでも床に転がっているわけにはいかない。私は立ち上がり、猛然と抗議をした。
「何しに、って」
「白瀬!?」
 私が転んだ音を聞きつけてか、音野が自室から飛び出してきた。琴宮はその手をぐっと握る。
「えっ」
 音野の喉から声にならない声が発せられた。
「名探偵の用事といえば決まっている。事件だ。君もきたまえ、音野君」
「毎回毎回音野を呼びに来ないで下さいよ、心臓に悪い」
「音野君も私と同じ名探偵なのだろう? 名探偵が事件を解決しに行くのは当然じゃないか」
 ふふと不敵に笑う琴宮が音野を連れ出しに来るのはこれで三度目だ。鈴谷家の事件で知りあって以来、なぜだか気に入られてしまったらしい。
「本来ならば一つの事件に二人の名探偵は必要ないのだけれどもね。音野君は名探偵としての自信が足りないから、私を見て勉強させてあげよう」
 上から目線ながらも、あくまで穏やかな琴宮の言葉。それは日頃私が抱いている、音野に名探偵としての自覚を与えたいという気持ちにするりと馴染んだ。反論できない。過去二回は、その隙に強引に音野を連れて行かれてしまった。
 しかし、琴宮の申し出は音野のためにもなるのではないだろうか。引きこもりになりたがる彼を外の世界に触れさせ、しかも犯罪に巻き込まれた人々を救わせることは、彼が外界へ踏み出す良いきっかけになるに違いない。
 こうして、私と琴宮の目的は合致したのである。
「さあ音野君、行こうじゃないか」
「い、行かないっ。白瀬っ」
「音野」
 心苦しいが、これも音野のためだ。助けを求める彼の瞳から目を逸らさず、私はゆっくりと含めるように言った。音野はじたばたと抵抗を試みているが、琴宮がその手をしっかりと握っているせいで、遊んでいるようにしか見えない。
「もし君の大事な人が――― 例えばそう、お兄さんが犯罪に巻き込まれ、君にはそれが解決できるとしたら、君はどうする?」
「兄さんなら自分で解決する……」
 手の動きを止め、俯きながら音野が言った。私は何度か会ったことがある音野順の兄・音野要の顔を思い浮かべる。確かにそうかもしれない。
「いや、ほら、お兄さんが何かの事情で解決できない場合のことを考えてくれ」
 慌てて付け足す。音野はしばらく考えた後、小さな声で呟くように答えた。
「……それしか、兄さんを助ける方法がないなら……」
 相変わらず目を逸らしたままだが、音野にとってはこれがデフォルトだ。私はほっとして続けた。
「そうだろう。お兄さんじゃなくても、君は同じことをすればいいんだ。犯罪に巻き込まれた人が人生を狂わされるのを、君なら救える。そしてそれは、君にしかできないことなんだ」
「この琴宮にもね」
 むっとしたように琴宮が付け加えたが、話がややこしくなるからこの際無視する。
「行っておいで、名探偵。君ならできるさ」
「……白瀬は、来ないの?」
「安心しなさい、名探偵音野順。君は私が守る」
 自信たっぷりに琴宮が言うのを、不安げに音野が見上げた。
 もう三回目だ。いい加減慣れたらいいのに。そう思いながら、私は安心しきってその様子を見ていた。過去二回、琴宮に連れだされた音野は無事に家に帰ってきているし、その後の様子も私と事件現場に向かうときと大して変わらない。むしろ琴宮に対する文句を言うことが多く、いつも口数の少ない音野が自発的にたくさん喋ることが私には嬉しい。以前は丸まりがちだった背中も、心なしか伸びているような気がする。
「さあ、そろそろ行こうか。あまり依頼人を待たせると信頼に関わるからね」
 音野は私と琴宮を交互に見詰めた。私はできるだけ優しい微笑を、琴宮は自信に満ちた表情を返す。何度か視線を行き来させた後、音野は諦めたようにはあと重い溜息を吐き、 「おにぎり持って行っていい?」
と訊いた。





○ ○ ○





 ばーん、と勢い良くドアが開け放たれた。本日二回目。音野と琴宮が出て行ってからまだ一時間も経っていないのだが、もう帰ってきたのだろうか。二人に違いないと思った私は、焦ることなく応じた。
「どうしました? 何か忘れ物でも―――
「久しぶり、白瀬君」
 振り返りかけた私の手をとって、音野要が微笑んでいた。
「要さん! お久しぶりです」
 私は慌てて手を離した。距離が近くて驚いた。海外で過ごした時間が長いからだろうか。それにしても、以前握手をしたときにも感じたことだが、世界的指揮者の手は意外にもほっそりとして柔らかい。温かさが私の左手にも残った。
「いつもメールありがとう。そのせいかな、あんまり久しぶりって感じはしないけど、会うのは稲葉さんの家に行った時以来だよね。あ、白瀬君の新刊読んだよ。面白かった! あれからもいろんな事件を解決してるみたいだね。元気そうで何より。順も元気かな?」
 口下手な弟と違って、兄は饒舌だ。いつも口を挟むタイミングが掴むのが難しいのだが、今回は彼が疑問を投げてくれたため助かった。
「ええ。今日も難事件を解決しに行っています」
「白瀬君は行かないの?」
 兄弟揃って同じことを尋ねる。ちょっと首を傾げるその仕草までもそっくりなので、思わず吹き出した。
「あ、すみません。やっぱり兄弟なんだなあと思って、つい」
「そんなに似てる? 小さい頃はよく似てるって言われたものだけれど、大人になってからは全然言われないよ」
 不思議そうに、また首を傾げる。確かに雰囲気が全く違うのですぐには気付かないが、顔の造作もよく見れば似ている。特に柔らかそうな髪の毛なんかそっくりだ。ただし、要の髪には音野のように寝癖はついていない。
「今でもよく似てますよ」
と私は請け負った。
「今日は私じゃなくて、琴宮さんという人が音野と一緒です。琴宮さんも音野と同じ名探偵で、以前ある事件で出会って以来、音野を気にかけてくれるんです」
「そうなんだ。白瀬君が信頼してる人なら、僕も安心して順を任せられるよ」
 にこやかに言われて、少し罪悪感を覚える。琴宮を信用していないわけではないが、私の目の届かないところで音野をいじめていないことを祈る。
「でも、要さんが来るなら音野を行かせるんじゃなかったな。すみません、折角来ていただいたのに」
「ううん、いいんだ。まだ二、三日は日本にいる予定だから、順にはまた会いに来ればいい。それに、白瀬君とも一度、二人で話してみたかったしね」
「じゃあコーヒー淹れますね」
 要は頷いてソファに座った。舌の肥えているだろう彼に対して出せるのがインスタントコーヒーだけと言うのが悲しいが、張れる見栄がないのだから仕方がない。一応、聞いておくことにする。
「あの、インスタントコーヒーでも良いですか?」
「お構いなく。コーヒーの味ってどれもそんなに変わらないしね」
 気を使ってくれているのだろうか、とも思ったが、そういえばフランス料理の店でも味がわからないと笑っていたっけ。ばれないように思い出し笑いをした。
 どうぞとコーヒーカップを渡して、他に座るところがないので要の隣に座る。隣に座るのが、同じ音野でも弟ではなく兄というだけで、私も柄にもなく緊張してしまう。
「白瀬君は、どうして順と一緒にいてくれるの?」
 穏やかな声音で要が尋ねた。兄としては気になるところだろう。確かにこれは、音野がいるときには訊きづらいのかもしれない。
 私は素直に答えることにした。
「音野には才能があるんです。本人は認めようとしませんが、彼は誰も気が付かない真実を見つけることができる。それは人を戸惑いや悲しみから救う才能です」
 要は静かに私の言葉に耳を傾ける。兄に対して実の弟のことを語るのは気恥ずかしかったが、落ち着いた要の雰囲気が私の言葉を引き出した。
「私はそんな彼の才能に憧れます。けれど彼はその才能を封印し、日陰に引きこもろうとしている。そんな彼の姿を見ると、彼に憧れる人間として、また友人として、どうにかして自信をつけてやりたくなるんです」
「そう」
 にこりと要は笑んだ。
「白瀬君はいい子だね。君が順の友達で良かった」
 しみじみと言われると私も照れる。要は優雅にカップを持ち、美味しそうにコーヒーを飲んだ。
「順に友達ができたって聞いて、一体どんな子なんだろうって思ってたんだ。昔から順は人見知りでね。自分で友達を作ることもできないのに、一人になりたくないから僕に友達ができるのを嫌がるんだ。子供みたいでしょ? あ、実際子供の頃の話なんだけど。でも、君なら順が懐いても不思議じゃないな。だって白瀬君、僕もすっかり君が気に入っちゃったんだ」
 驚いて要を見詰める私と目が合うと、彼はふわりと微笑んだ。風が香るようなそのたおやかな笑みに、私はようやく気がついた。彼が来てから感じていた、違和感の正体に。
 かーっと顔を赤くした私から視線を外し、要は窓の外に目を向けた。
「もうすぐ春だね」





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2012.05.15.
琴宮×音野順(雰囲気)と音野要×白瀬(雰囲気)です。
どっちも雰囲気ですすみません!!!
白音っぽい描写が多いですが、あくまで友情のつもりで書きました。
どちらのCPにしても、やはり白瀬と音野の関係性は外せないなと思ったので。

タイトルは、普段白音+琴要メインの私にとっての、
ハッピーエンドへ向けてのもう一つの世界という意味で。