私の恋人は探偵業をしている。銘探偵メルカトル鮎と名乗り、日本で一番の探偵だと大層自信家なのが鼻につくが、実際、探偵としての彼はおそらく天才だった。奇抜な発想と怜悧な推理で犯人を追い詰める。けれどその中で自分の利益を最大限に確保しようとするところが、玉に瑕だった。
 なぜそうまで資産を求めるのかと聞いたことがある。するとシルクハットをくるくると回しながら、まるで無感動な顔をしてメルは答えた。
「血の海を渡る対価だよ」
 自分の解決してきた事件を、血の海とメルは呼んだ。
「君達凡人の代わりに事件を解決するのがこの私だ、金なんかいくらもらっても足りないくらいだね」
 確かに普段は依頼がない限り動かないと言っている。しかし気まぐれや暇潰しで事件を求めることも頻繁にあるくせに、よく言う。
「じゃあ君は対価なしでは探偵などする気がないって言うのか」
 メルは私を馬鹿にするように肩をすくめる。
「私は銘探偵だからね。謎の方が私を必要とするのさ。私はその要請に従っているに過ぎない」
 わかるようなわからないような話だ。ふうんとだけ相槌を打つと、そんな私の心中を読んだようにメルはこう付け加えた。
「と言っても、君には到底わからないだろうが」
「あーはいはいすみませんね」
 こいつの暴言は聞き流すに限る。メルも話を続ける気はないのか、コーヒーを淹れてくれと頼んできた。ソファから立ち上がり、キッチンに向かう。サイフォンから香り高い液体が流れ落ちるのを眺めながら、先程のメルの言葉を反芻していた。
 彼が渡るのは、一面が赤く、底は黒ずんで見えない海。メルはその上を一人で歩む。下からは彼を引きずり込もうと亡者の手が伸びる。メルはそれには目をくれない。ただ前を、自分の行く先を見据える。対岸は見えない。いくら進んでも。なぜならそんなものはないからだ。果てのない、地獄のような孤独と退屈―――
 キッチンのシンクに、はらはらと涙が落ちる。自分の想像に泣いてしまうとは、どこかおかしい。けれど銘探偵メルカトル鮎が一人で血の海を渡るなら、私はその離れゆく背中を見つめることしか出来ないのだろうと、悟ってしまった。どんどん遠く、小さくなる背中に、声をかけようがない。
「美袋くん」
 いつの間にか、傍らにメルが立っていた。
「馬鹿だね、君は」
 そう言って見せた笑顔は、いつもの嘲笑ではなく、柔らかい優しい笑みだった。
「私はどこにもいかないよ」
 メルの長い人差し指が、ついと私の目尻を拭う。優しく抱き寄せられるのに逆らわず、私は彼の肩に顔を埋めた。
「なんでわかったんだ」
 いつもならば、私がコーヒーを持っていくまでソファで座って待っているのに。
「だから君は馬鹿だと言うんだ」
 ぽんぽん、と頭を軽く叩かれる。
「私は銘探偵メルカトル鮎だ。君の考えを読み取るくらい造作もないよ」
 そうか。私は小さく答えた。メルが私の頭を叩くのをやめ、髪を撫でた。
「ああ、君の対価は私の活躍を見ることだからね」
「えっ、僕も一緒に渡ることになっているのか」
「当り前だろう」
 この傍若無人な銘探偵は、きっと道連れなど必要としないと思っていたのに。きっと私のこの驚きもメルには計算ずくのことに違いない。それでも。
「メル」
「なんだい?」
「あんまり暴利を貪るなよ」
 君には僕がいるんだから、と非常に小さな声で付け足すと、メルは爆笑して、赤くなった私の耳にキスを落とした。










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2011.11.20.
血の海を渡るメルの描写がしたかっただけの話。
付き合ってる場合、美袋くんは涙もろいと可愛いなと思います。


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