※『ケルベロス』後です。





   多分何も考えたくなかったんだと思う。いつの間にか座り心地にも慣れてしまった椅子の背もたれに体を投げ出して、キーボードから離した腕を体の両脇にだらんと垂れ下げ、顔を仰向けにして肺の中の空気を全て吐き出す。そうして目をつむれば目頭が熱くなるのを感じて、ああこれはまずいな、と思うとどこかに息を潜めていた防衛本能が働いて思考回路をシャットダウンした。普段は意識もしない、部屋の外を人が行き交う足音が、鼓膜を叩いてやけにうるさい。扉は既に閉まっていてこれ以上その音が部屋に入るのを防ぐことはできなかったので、彦根はとても億劫だったが、緩慢な動作で首にかけたままだったヘッドホンを頭に回して両耳を塞いだ。特に遮音性に長けたわけではないそのヘッドホンの、薄い装甲はけれど耳障りな足音を少しだけ遠ざけた。ヘッドホンを付けたついでにポケットに入れっぱなしの音楽プレイヤーを操作することは今の彦根にも容易だったが、そこに収納されたどんな音楽も求めてはいなかったので、再びだらりと腕は床に向けて垂直に下ろされた。
   二人で使うために用意された部屋に一人で戻ってきたときにはとても広く感じたはずなのに、一人でいることに何の違和感も覚えなくなっている。ふと手を休めたときにも途切れなく続く滑らかなキータッチの音、彼女が席を立つときに椅子が床を滑る音、極稀に聞くことができる囁くような吐息の音。それらはこの貧弱なヘッドホン一つで充分に彦根から遠く離れてしまうものだったから、二人でこの部屋にいるときにヘッドホンを付けることはほとんどなかった。彼女が彦根と扉との間に存在して、部屋を侵す外からの音を遮断していたため、その必要もなかった。その習慣は今では彦根を聴覚から苛むばかりになり、ヘッドホンで足音を遮断して初めてそれを自覚した彦根は、自衛のために習慣を捨てることにした。彼女ではない何者かが部屋に近付き、また遠ざかっていく、その音を意識の外に追いやるために、彼女といたことで自身の中に作られた習慣や癖を全て消し去らなければならない、と強く思った。それは彼女が自分の元を去って以来常に頭のどこかで考えていたことだったが、それについて行動をしようとすると途端に頭や手足までもが泥のように冷たく動かなくなってしまうので、その度にしなければならない他の仕事の数々に意識を逸らしては闇雲に体を動かしていたのだった。
   頭だけを起こし、椅子を回転させることで部屋の中を視界に入れる。彼女の使っていたパソコンはいつの間にか消えていたが、置かれていたデスクに備え付けられたライトは彼女の使いやすい角度のままであったし、彼女が講演等で使った資料は綺麗に整頓されたままになっていた。椅子に敷かれたクッションは日本に来てすぐ彼女が買い求めた数少ない品の一つだったし、その買い物のときに彼女が間違えてユーロを使おうとしたことを今でも鮮明に覚えていた。洗い場に並んだ二つのマグカップの内一つは彼女のために彦根が用意したもので、コーヒーも紅茶もココアも彼女はそれ一つで飲み、飲んだ後は彦根の分も合わせて丁寧に洗っていた。部屋の角に置かれた本棚の内、半分は彼女の持ち込んだ専門書の類だったが、分野ごとに並べられていたそれを、時折使っている内に元に戻せないほど雑然とさせてしまったのは彦根だ。そういえば部屋の片隅に置かれたままの拡声器、雨に濡れたそれを拭いてそこに置いたのは誰だっただろうか。
   白い壁に囲まれた部屋の中に彼女の残したものがあまりに多く、彦根は愕然としてしばらく呆けたままでいた。パソコンだけではなく、どうせなら全て持って行ってくれたら良かったのに。その自分の思考を女々しいと認めると、ヘッドホンを机に投げ出して小さく笑った。音楽プレイヤーからイヤホンジャックが外れ、手の中でぶちんと音がするのを、自分の神経のいずれかが切れたように感じた。引き攣れのように数度笑うと、大きく息を吸い、吐いて、数分前と同様に椅子に体重を預けた。薄く開けた目に映る天井はおそらくこの部屋で唯一彼女の痕跡を残さない場所だったが、それはただ寒々しい印象を与えるだけだったので、彦根は目をつむることにした。そうするとまたさざなみのように人の足音が寄せては返すのが聞こえてきたが、それが意識に上る前に防衛本能が再び働いて、彦根が意識的に押し込めていた睡眠欲を引きずり出した。しばらくすると昼下がりの暖かい陽射しがブラインドを通って部屋に満ちたが、眠ってしまった彦根が次に見るのは日が落ちてすっかり暗くなった部屋だったし、昼間ほどではないにしろ足音は時折やってきては彦根の神経を擦り減らし、それを遮断してくれていた彼女の存在は彦根が幾度まばたきをしても再び現れることはなかった。





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2012.11.03.
おつかれスカラムーシュ。