とくんとくん、と彼の胸からは鼓動が聞こえた。
「……音がします」
 ゆっくりと閻魔から身体を離し、鬼男は言う。執務室の大きな椅子に座る閻魔の膝の上で、鬼男は抱きしめられていた。
「そう」
「でも、血は流れてないんでしたよね?」
 首を捻る鬼男の髪の毛が当たってくすぐったいのか、閻魔は目を細める。
「俺の体には酒が流れてるんだよ」
「酒!?」
 いつからそんな酒飲みになったんだ、と怒り出しそうになる鬼男を閻魔は慌てて「違う違う」と宥める。そして少し遠い目をする。
「《閻魔大王》になる時にね」
 それは誰も知らない程の大昔、世界の始まりの頃の話だった。
「お酒を飲まされたんだ。すっごい美味しいお酒」
 大きな杯に口を付けると、むせるほどの甘い香りが全身を包み、脳の中心を痺れさせた。透き通った液体に顔が映っていたのを覚えている。一口。液体は果実の蜜みたいにとろりとしていた。思考を奪う香りと共に、鼻を抜ける強い辛味と、舌を蕩かすような後を引く甘みが五感を支配した。喉を伝い胃に落ちると、内臓がどろどろと溶かされるように熱くなったが、痛みはなかった。それどころか舌が渇き、五臓六腑が貪欲に続きを欲した。それを止めるものはなかった。杯に満ちていた液体を飲み干し、最後の一滴までも舌で舐めとると、意識を失った―――
「そして目覚めたときには、全ての記憶を失くして、閻魔大王になっていた」
 ってわけ、と冗談めかして閻魔はオチをつけた。それは人間が人間でなくなる際の筈だったが、彼の話した後には、その酒の香りと味の想像だけが余韻を残した。
「ねえ鬼男くん、俺からいい匂いがしたことない?」
「……ありますけど、もしかして……」
 なんとなく褒めているようで気が進まなかったけれど、鬼男は渋々同意した。時折、審判の最中に目に入る首筋から甘い香りが立ち昇ってくるような気がしてはいたが、気のせいではなかったのか。
「そう。俺の中を流れるそのお酒の香り」
 ひひっ、と種明かしをするのが心底楽しそうに閻魔は笑う。
「道理で、無駄に長生きしてるくせに加齢臭がしないと思ってました」
「辛辣!」
 閻魔が大袈裟にリアクションをとるのを鬼男は聞き流し、その鬼男の反応すらも流して閻魔は自分勝手に続ける。
「そのせいで輪廻を外れたんだから、俺にそれを飲ませた誰かを、俺は恨んだりしてもいい筈なんだけどね――― 不思議とそんな気にはならないんだ」
 閻魔が彼自身の境遇について語ることはおそらく初めてのことだった。その表情は落ち着いていて、微笑さえ浮かんでいた。
「きっと今が幸せだからだね」
 ありがとう。
 どういたしまして、と鬼男も微笑む。
 口付けは甘い果実の香りがした。










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2010.03.28.
拍手ありがとうございました!
閻魔大王の誕生秘話です。
閻魔からいい匂いがするなんて、
ちょっとくらい夢見てもいいじゃない。
お酒の描写が一番楽しかったです。