好きとか嫌いじゃないけれど、春の朝、職場に向かう京浜東北の顔はすこしけわしい。
 正確にはもうそろそろ春が訪れそうだという三月の、ダイヤ改正を乗り切って運行が安定してきた年度末から、京浜東北の顔はすこしけわしい。
 新しい環境に戸惑ったり、馴染めなかったりする気持ちを、わからないわけではない。ただひとつ走ることだけを、とも言えない百年間をすでに過ごした。走り出してすぐに課せられた半年間の空白、周囲をとりまく路線の増加、戦争がはじまり終わり、本線ではなく高速鉄道が上位に立つように変わった組織は、やがて分割された。絶えず変化する世界にあって、鉄道には恒常性が求められる。走り続けられることは幸福であり、業でもあった。
 だからわからないわけではないのだ。重圧に押しつぶされそうな不安や、未来に希望を持てない閉塞感を。強いられた変化の痛みや、不変を求められる緊張を。
 わからないわけではない、けれど。
 歩みを進める京浜東北の、動きに合わせて空にほつれる後ろ髪の一本一本に朝の淡い光が躍り、頬の向こうにはやわらかな薄い青の空が、夜の名残りの薄明に広がろうとしていた。京浜東北は自分のまわりではじまりゆく朝に気付かないまま、近付く東京駅の駅舎にふと視線を向け、ドームに反射した一条の朝日がまぶしくて目を細めた。――わからないわけではないけれど、走っていれば、いいこともある。
 始発電車もまだ走らない早朝に、東京駅はひそやかに息をしている。静謐を破らぬように薄いからだを滑りこませると、駅の一部になるようになじんでいく感触がある。進んでいくと誰の声に混じることもなく靴音が床を鳴らし、その音が耳に届くたびに静かな緊張が指先に満ちていった。土産物屋の通りを過ぎ、改札を過ぎ、ホームを通り抜けてもひとはいない。ときどき職員の制服を目の端でとらえるけれど、声をかける距離でもなく、京浜東北は一言も発さないまま事務所に着いた。
 掴んだドアノブは冷たく、指先に拒絶を返す。けれどそうしてドアノブを握る距離になると中からはかすかな物音が聞こえ、京浜東北はゆっくりと、扉を開いた。
「よ」
 扉を開ききるのを待って、そのひとは京浜東北を迎えた。
「おはよう京浜」
 まだ薄暗い夜明けの光が、縁や角に集まり鈍くまたたくような銀色のながしの前に東海道本線は立っていた。コーヒーを淹れる手を止めて京浜東北を見つけ、眼差しをゆるめる。詰め襟の色が逆光の中で一瞬だけ影になり、まばたいて見るとやはり随分前に変わったきりの、海と空の彼方を染める夜明けの色だ。馥郁としたコーヒーの香りに包まれるのを感じながら、京浜東北は東海道を見つめた。
 言いたいことがいくつもあるような気がしたのに、言葉となって出てきたのはたった一言だった。
「おはよう、東海道」
 百年前にはじめて会ったとき――なんと言葉を交わしたかもう忘れてしまったけれど、もしかしたらこんな風だったかもしれない。
 窓の向こうに立ち並ぶオフィスビルの美しいガラス張りの壁面に朝日が反射して窓辺に射す。気がついた東海道は振り返り、「夜明けか」と呟いた。
 朝礼には早い時間にほかの路線はまだ来ておらず、事務所のいちばん奥の、今しがたまで書類を見ていたという風情の机は東海道のもので、ほかは昨夜の退勤時のまま動いていない。時計の針が動く様子がいつもよりもゆっくりと見え、京浜東北が扉を閉める音や、東海道の隣の机の椅子を引いて座る音が、二人きりの部屋に心地よく聞こえた。
「ほら」
 パソコンの電源を入れ、書類を手にとった京浜東北の机にマグカップが置かれる。湯気の向こうに視線をずらすと、骨ばった手が橙色の制服のポケットにしまいこまれるところだった。
「ありがとう」
「ん」
 東海道は、自分もマグカップに口をつけたまま短く答えた。飲みながら自分の席に座ろうとして、熱い液体をいきなり飲みこんでしまったのか「あちっ」と声をあげる。「横着するから」と京浜東北はすげなく呆れたが、そうした冷静さに慣れているからか、それともそう返した京浜東北の顔がすっかりいつもどおり落ち着いているのに気付いたからか、東海道の口もとにはただ微笑が浮かんだ。
 それから、あまり会話はなかった。京浜東北がキーボードを弾くかすかな音に、ときおり東海道が書類をめくる音が重なり、ふたりがそれぞれにマグカップを持ち上げる音が不規則に訪れた。コーヒーはまだ冷めていない。おそらくは冷めるころにほかの在来線がやってきて、おはようと口々に交わすことになるだろうと京浜東北は思った。
 東日本の在来線のなかで朝いちばんにこの事務所の鍵を開くのは、京浜東北の役目だった。
 それは長いあいだをかけて自然にこの空間に馴染んだ役割であり、不満はなかった。
 けれど春の、前日の処理やその日の運行を思いながら出勤する朝だけはなんとなく苦手で、顔をけわしくしたり、溜息をつきながら鍵を開くのが、ここ数年のならいになっていた。
 東海道が京浜東北よりもはやく出勤するようになったのは、ほんのすこし前からだ。京浜東北がいつものように開けようとした扉がすでに開いていて、中では東海道がコーヒーを淹れて待っていた。そう、それは待っているというのが正しく適切だっただろう。東海道はおはようと微笑むほかはなにも言わなかったし、京浜東北もおはようと返すほかになにも聞かなかったとしても。
 ふだんは兄以外を気にも留めないこのひとが、ほかの誰も気付かなかった京浜東北の不調に気付き――あるいはそれゆえではなく、東海道自身の優しさや気遣いを理由として、春の朝を共にしてくれることを京浜東北は誰にも言っていない。
 だってのろけるようだったから。
 マグカップに残った最後の一口分を飲み干すと冷めている。立ち上がってちらりと見ると東海道のも空になっており、京浜東北はそのままながしへ向かった。すぐ隣に窓のあるながしはすっかり明るく、湯が沸くのを待ちながら窓の外へと視線を向けると東京の朝は忙しく動き出していた。閉めた窓硝子越しでも、この駅に集った線路に電車が走る音が聞こえた。
 今日もまた、一日が始まっていくのだ。これからの日々とおなじ、けれどそのいずれとも異なる、新しい一日が。
 やがて二杯目のコーヒーの香りが立ち上り、東海道も気がついたころ、事務所の扉ががちゃりと開いた。
「おはよう」
 今日の三番手は京葉だった。平成になるのを待って全線開業した東日本の最年少は、明治に開業した最初の路線である東海道と挨拶を交わし、その穏やかな笑顔を京浜東北にも向けた。
「おはよ、京浜東北」すこし首を傾げて――もしかしたら「なにかいいことがあった?」と聞こうか迷って――京葉は、「今日もがんばろうね」と笑った。
「うん」
 京浜東北も答えた。
「今日も、よろしく」
 東海道の机から、とんと書類を整える音がかすかにし、それは返事のようだった。
 好きとか嫌いじゃないけれど、この人がいて良かったと思う朝が、ときどきある。





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2015.10.19.
じゅにあとけーひんが、彼らなりに幸せそうな様子が書けてたらいいなと思います。
じゅにあの制服の色の描写は、J海のコーポレートカラーの説明より。