昔、朝は騒がしいものだった。
 ジンを目覚めさせるのは、パンの焼ける香ばしい匂い。新鮮なジャムの甘い香り。それから、シスターが朝食を作る音が、キッチンから聞こえる。お湯の沸く音。彼女の鼻歌。ときどき兄の寝言も聞こえた。目を開けるとカーテンが風にそよぎ、シーツの上で光が波打つ。
 ジンは手を伸ばし、隣のベッドで眠る兄の体を揺する。
「兄さん、おはよう」
「ん……」
「ほら、起きて。兄さん」
「ジン……? おはよう」
 顔を洗うまで兄は寝ぼけているのだが、冷たい水で目を醒ますと途端に元気で、シスターにおはようと言いながら妹を起こしに駆けていく。取り残されたジンはキッチンでシスターを手伝い、やがてやってきた兄と妹と共に、賑やかな朝食を囲む。短い指でたどたどしくコップを掴む妹が、その中身をテーブルや床にひっくり返してしまわないか、兄もシスターもいつもはらはらとして気が気じゃなかった。その隣にいるジンはパンを食べながら、兄の向こうにあるバターとジャムが欲しいと思っているのだが、それはともかく賑やかな朝食ではあった。全てが柔らかな光に包まれて、温かい団欒の朝だった。
 反動のように静かだったのが、キサラギ家の朝だった。数え切れない数の人が住んでいる筈なのに屋敷の中は静まり返り、そっと開けた襖の向こうは、いつも冬枯れの寂しい木立だったような気がしている。本当はあまり覚えていない。
 士官学校に入ると、同じ年代の子供と友になることを強制された。しかしキサラギ家次期当主の冠は、中等部の子供達へ畏れを抱かせるだけだった。異物への距離の取り方は、幼いほどに残酷だ。けれど高等部で友に恵まれた――おそらくは友と呼べる――のは、年齢のせいだけではなかっただろう。朝から晩までうるさくて、気が休まる暇などなくて、けれど目覚めるのが怖くない、そんな朝がジンにもあった。
 卒業と同時に投入されたイカルガ内戦では、目覚めと共にユキアネサを抜いた。死んだ部下を数えた後の眠りは浅かった。前線に近付くほど死の匂いが濃く立ち込める戦場にあるのは生と死のみであり、朝と夜はただ光の有無を表す言葉だった。
 イカルガ天上を討った功績で二階級特進し、少佐になってからはデスクワークばかりになった。戦場に駆り出されることがなければジンは職場と家とを往復する日々であり、家とはただ睡眠を摂るだけの場所だった。閉めたままのカーテンの裾から漏れる光はジンの眠りを醒ますには弱く、静寂もまた無力だった。暗い部屋に時間は止まり、ジンは自分の体内時計だけを頼りに起きた。休日にすることもないから毎日、朝食もとらずおはようの一言もなく、木偶のように職場に向かった。
 永遠に続くかと思われたそんな鈍色の朝は、唐突に終わりを告げる。
「兄さん、殺し合おうよ!」
 殺した筈の兄が生きていた。それを知った日からジンの日常は鮮やかに色を持ち、常識は音を立てて崩れた。自分のために、兄のために、そして世界のために兄を殺そうと刃を向け、結局ジンは自分のために、兄を生かすことを選んだ。
 瞼の上に朝の光を感じ、ジンは薄く目を開いた。眩しくて、二、三度まばたきをする。上体を起こすと空腹を感じ、おいしそうな匂いが部屋に満ちていることに気が付いた。
「……もう昼か」
 久しぶりの休日だ。近頃ではジンの体内時計は器用なもので、休日には目覚まし機能を止めている。それというのも今のジンには、休日にしかできないことがある。
「――兄さん、おはよう」
 リビングで遅い朝食の準備をする兄の後ろ姿に、できるだけさり気なく声をかける。それでも声に喜びが混じるのは止めようがなく、こうして誰かに、兄に、最も愛する人にこう言える喜びを、朝が来る度に噛み締めている。
 振り返った兄は、眉尻を下げて呆れる。
「おそようさん、ジン」
「意地悪だなあ、兄さん」
 本当はジンだって早く起きてできるだけ兄と過ごしたいのだが、どういうわけだか兄と暮らし始めてからこちら、とてもよく眠れるのだから仕方ない。静寂には兄の呼吸が混じり、ジンの体を受け止めるベッドは柔らかで温かい。多幸感で満たされて、寝ても醒めても夢のよう。もう兄と自分の仲を妨げるものはない。
 ――兄弟という鎖以外は。
 ジンは微笑み、兄に尋ねる。
「兄さん、今日は何して遊ぼっか。天気が良いから、外で殺し合いでもする?」
 半分本気の混じったジンの軽口を「最近腕もなまりがちだしなぁ」と流しながら、早く座れよ、とラグナは椅子をぽんと叩いた。





 天気が良いから、という言葉には結局、家の掃除をしよう、という言葉が続いた。
 キッチン、風呂場、玄関にリビング。自分の部屋は自分で掃除。この家に住み始めて一ヶ月と少し、放置し続けたところも含めて徹底的にやろうということで、家中を磨き上げた二人が満足した頃にはもう夜になっていた。
「意外と時間かかっちまったな。飯にしようぜ」
 そう言ってラグナは冷蔵庫の中の食材で、手早く夕食を作ってくれた。ジンにも料理はできるけれど、兄のようにあるもので簡単に作ってみせることはできないし、味もいまいちぱっとしない。きっと、食べることが好きではなかったからだと思う。ジンにとって食事はただの栄養補給で、味に頓着したことがなかった。
 兄は料理が好きだと言う。その気持ちが最初はわからなかったけれど、今ではわかるかもしれない。ジンが兄の手料理を美味しいと感じるのは、兄が好きだからだ。誰が作ったかが料理に価値を持たせるのなら、誰が食べるかということもまた、料理に価値を持たせるはずだ。誰と一緒に食べるかも。
 だから食事の途中で兄が持ってきた酒を見て、困ったなあと思いながらも、席を立つことなんてできなかった。折り悪く明日も休日で、家でのんびりしていようよと先程兄と約束を取り付けたところだった。
「飲むだろ? ジン」
 兄がにやりと笑ってみせる。敵わないなあとジンも笑って、兄の手からグラスを受け取った。物への執着が薄いジンが自ら買い求めた、兄と揃いのグラスである。
 傾けた壜の口から透明の液体がとくとくとグラスに注がれ、華やかなアルコールの香りが立ち上る。乾杯、と差し出されてグラス同士をぶつけると、二人の間で高い音が鳴る。それはユキアネサとブラッドサイズがぶつかり合って生じる音に似ているが異なり、頭の芯からとろけるような酩酊もまた、剣戟の興奮に似て非なるものだった。
「初めて、だよな? おまえと酒飲むの」
「そうだっけ」
「そうだよ」
 細かいことを気にしない性分の兄が、いやにこだわる。ジンは肩を竦めて質問をいなし、黙って杯を傾けた。芳醇な酒の香が口内から鼻へと抜けていき、同時に冷たい液体が内壁を焼きながら、胃の腑に落ちていく。探るように見つめてくる兄の目線を避けて一口、二口。唇を湿らせるように舐めるジンと対照的に、不満気に杯を煽るラグナは一口が大きい。あまり顔色が変わらないのはジンと同じ体質だから、そう酒に強くないのも同じだろうに。
「兄さん、飲み過ぎじゃない?」
「はあ? おまえこそ全然飲んでねえじゃねえか。ほら、注いでやる」
「あっもう! そんなに飲めないよ!」
 どうやら絡み酒タイプだな、とこっそり溜息を吐くジンの目の前で、壜の中身がどんどんと減っていく。止めるのは早々に諦めて、脈絡がなくなってきたラグナの話に頷いてやるだけでも楽しいものだ。
 半日かけて磨き上げた家の中はどこもかしこも清潔な光を反射して、酒に潤んだ視界の中でまるで美しいもののようにきらめいている。兄の低い声はジンだけに向けられており、澄んだ緑と赤の目は時折細められて穏やかな微笑を作る。そんな兄が、普段以上に綺麗に見える。酒の力は偉大だなと、これまで付き合わなかったことを少し後悔しているジンだった。
 兄に触れたいと思っても、テーブルが邪魔をするから堪えられる。向ける微笑が甘やかなものになっているのは気付いているが、すっかり酔い潰れる寸前の兄の顔よりはましであろう。とろんとして締まりのない、これがかつて死神と恐れられた人の顔かと呆れるくらいの幼い顔だ。他の人に見せたくないから酒を飲むのは家でだけにして欲しい、などと口に出せないままに、ジンはラグナを見詰めて微笑んでいる。
 兄さん、と心の中でゆっくり唱える。
 兄と弟でなければ抱けるだろうか、そう考えたこともあった。けれどそれでは意味がない。兄だからこそ愛しい。兄だからこそ愛して欲しい。ジンにとって兄とは血の繋がりだけを示す言葉ではなく、全ての感情に付ける名だ。
 兄はいまここにいる。ジンの前に、ジンと二人で清潔に調えた、この小さな家の中に。
「ねえ、兄さん。僕、兄さんと一緒に暮らせて、本当に嬉しい」
 ちゃんと意味が通じているのかどうか、兄は照れもせずにああなんて言う。
「ああ、そうみたいだな」
「兄さんも?」
 思わず身を乗り出すと、そのジンの必死さがおかしかったのか兄はふふっと声を漏らして笑った。くしゃりと崩した顔が眩しくて、ジンはまばたきしか出来ない。普段険しい兄の目付きがやわらいで、まるで愛しいものを見守るようだ。その視線の先にはジンしかいない。本当に?
 照れているのか兄は口を開いてはくすくすと笑い、待っているジンをちらちら見てはやはり笑う。もうじれったくて仕方ない。兄さんなあにと聞きたいところをぐっと堪えて、促す視線が強くなる。それもくすぐったいというように顔の前で手を振って、ラグナはようやく言葉を続けた。
「もちろん」
 笑い声に紛れた声は、確かにそう言った。「まさかおまえと暮らす日が来るとはなあ」感慨のこもった声がジンの心に染みて、あたたかかった。ラグナは先程からずっとそうしている愛おしむような瞳を、ジンに向ける。
「ありがとな、ジン」
「…………にいさん」
 眼の奥が熱くなり、瞼が震えた。唾を二回飲み込み、わななく唇の端を苦労して釣り上げる。笑顔に見えているはずだ。
「――兄さん、酔ってるの?」
「酔ってねえよ」
「酔ってる人って、そう言うんだよ」
 拗ねるような兄の声にそう答え、少し落ち着く。声がまだ硬いのは、少し気を緩めると泣いてしまいそうだからだ。世界は平和で、兄は優しく、見えるもの全てがきらきら光る。微笑を交わし合う夜は時の流れが緩やかで、二度と戻らないからこそとうといのだと、過ぎ去った幾億の事象を想う。
 今、この時を、ジンは兄の隣で生きている。
 それにしても、諭されて不機嫌そうにしている兄は駄々っ子そのものだ。ジンは泣く代わりにふふっと笑う。
「ねえ、兄さん、そろそろ寝よう? 明日二日酔いでずっとベッドなんて、僕嫌だよ」
「ん……」
 椅子を離れて兄に近づき、立ち上がるのを支えようと腕に触れる。兄が素直に頷くものだから、ああ酒の力とは偉大なものだなあ、とジンは真摯な感謝を捧げてしまう。
 兄をベッドに運んで寝かせ、額と頬にキスを落とす。
「おやすみ、兄さん。また明日も遊んでね」
 耳元で囁いて、顔を離す瞬間。
 呆然とジンを見上げる、兄の瞳と目が合った。
「……っ!」
 息を呑んで飛び退り、部屋の外へ逃げながらおやすみと叫ぶ。荒っぽく閉めた扉に背中でもたれ、意味をなさない音で呻く。膝を折って頭を抱える。小さくなってこのまま消えてしまいたい。
 やってしまった。










 いろんな朝を迎えてきたけれど、こんなに起きるのが怖い朝は初めてだった。
 額へのキス。それから頬に。唇がかすかに音を鳴らし、同時に髪を撫でた手が優しかった。恋い焦がれた唇でこそないけれど、そういうつもりのキスだった。
 するつもりなんてなかったのに。
 酒で判断力が低下した上に、兄があんまり優しくするものだから、つい気が緩んだ。そうできたらと何度も夢想したままにくちづけをしていたし、そのこと自体、兄の顔を見るまで気付かなかった。まったくどうしようもない愚か者である。それが自分なのだから笑えない。
 ジンの後悔は自省に向かい、今後のことはあまり心配していない。もしかしたら兄は驚いただけで気付いていないかもしれないし、寝て起きたらキス自体忘れてるかも。だってあんなに酔い潰れていたんだもの。
 それでも不安は消しきれず、浅い眠りから目覚めるとまだ日も昇らない早朝だった。二度寝しようとしても眠れない。仕方なくベッドを離れ、リビングに向かう。昨夜のまま残された食器を片付けているうちに、兄のために朝食を用意しようと思い立った。
 何を作ろうかと考えて、以前兄が作ってくれたポトフの素朴な味を思い出す。そのとき兄の横で作るところを見ていたから、作り方も覚えている。野菜を切って煮込むだけで良かった筈だ。そんな簡単な料理でも美味しいと言ってもらえるかどうかは心細いが、出来によっては一人で食べよう。
 朝冷えの中にあったキッチンが、ジンの動きに合わせて温かくなっていく。いつも兄が立つキッチンは、全てが少しずつジンより背の高いところにあるのにすぐに気付いた。兄の喜ぶ顔を思い浮かべながら、ジンはじゃがいもやにんじんを洗い、一口大に切り、鍋に入れて煮込む。窓から朝日が射し込み、ジンの手についた細かな水滴を光らせる。なぜあんなことをしてしまったのだろうという自省の果てに、もう言ってしまおうか、とジンは思った。酔った程度で顔を近づけてしまうなら、いつか唇にもキスをするだろう。首筋に、胸に、腰にしたくもなるだろう。そうなる前にジンの本心を教えてしまったほうが、兄だって突然襲われるよりはましではないか。
 言ってしまおう。そう決めながら、不思議と兄に嫌われる恐怖はなかった。あの兄が――ジンに片腕を斬り落とされても、殺し合おうよと何度斬りかかっても自分を本当には嫌わなかった兄が、いまさらその程度のことで嫌うはずがないだろう。
 ジンが怖いのは、ただ、兄の望んだ『家族』を壊してしまうことだ。目覚めたらおはようと挨拶を交わし、団欒を囲み、一日の終わりにおやすみと言う。喧嘩をしても気付いたら仲直りしていて、元気がなければ楽しい話をしてあげる。多分そういう『家族』の在り方を、ラグナは望んでいる。
 でもジンだって、それは同じだ。ただ少しだけ、特別な方法で、距離を縮めたいと思うだけ。ジンにとって兄が全ての感情の行く先であるのと同様に、ラグナにとってのジンもそうあれたなら、きっと良いのに。ほうと溜息を吐くと、白い粉が舞い上がった。
 気もそぞろに手を動かしているうちに、ポトフはそろそろ完成に近い。味見をしていると、兄の起きてくる音がした。すうと大きく息を吸い、兄の好きな笑顔で振り返る。
「兄さん、おはよう!」
「……おう」
 兄は目をこすりながら、口の中でもごもごとおはようと言う。どうしたのだろう、とジンは手を洗い、兄に近付いて顔を覗いた。
「気分でも悪いの、兄さん?」
「いや」
「頭痛いなら、水飲む?」
「平気だ」
「じゃあ、その……記憶、ある?」
「…………ある」
 ああ、とジンも呻いた。全部? と重ねて問わずとも、気まずそうな兄の様子が既に答えになっている。もう気付かれているのなら、伝えるのも今しかない。
「兄さん。昨日の……キスだけど」
 びく、と兄の肩が跳ねる。ジンもつられて言葉を止めた。
 怯えているのか。俯いた兄の顔は見えないけれど、怯えた兄の顔が綺麗なのは知っている。泣いた顔も困った顔も、怒った顔も、笑った顔も兄は綺麗だ。ジンの気持ちがこれからずっと兄を怯えさせることしかしないなら、伝えるのはやめておこう。曖昧な笑顔でごまかす。
「えっと、ただのおやすみのキスだから」
「はぁ? ふざけんなよ! てめーのせいでこっちは寝不足でクマできてんだぞ!」
「えっ」
 兄は床を踏み鳴らしてジンに歩み寄り、胸倉を掴む。近い。圧倒されながら照れるという器用な感情の分配をしつつ、ジンは目を丸くして兄を見上げる。兄の顔は赤いが、怒っているのか照れているのか判別できない。もしかしたら怒りながら照れるという器用なことを、兄もしているのかもしれない。
「しかもあんな顔しやがって……! 寝らんねえよ! どういうつもりだ、ジン!」
「だって」
 兄に怒鳴られて、ジンははやくも涙目になっていた。兄のためにごまかしたのに、どうしてその兄が訊くのだろう。兄のために嫌いな嘘を吐いてきたのに、どうして暴いてしまうのだろう。正面切って問われたらもう、嘘は吐けない。嘘は嫌いだ。だから正直に言う声が、涙混じりに震えてしまう。
 世界はハッピーエンドを迎えたはずなのに、嘘を吐けない者の悲しみがまだここにある。
「だって、兄さんが好きなんだもの」
 胸倉を掴んでいた兄の手が緩む。けほ、と喉を調えると、兄の顔が僅かに歪んだ。本当に甘いんだからもう、とジンは自嘲気味に笑みを浮かべる。
 兄に向ける感情の全てを表すために、好きなんて言葉じゃ足りない。けれどそれしか思いつかないものだから、兄の瞳を睨みつけ、挑むように好きだと言った。口を馴らすように何度か呟いてから、思いついて愛していると言い換える。兄の顔が朱に染まった。でもまだ、全然、足りない。
「兄さん」
 やはり舌に馴染んだこの音が、最も的確に、ジンの気持ちを兄に伝える。目の前にいるのに触れられない兄に焦がれるように、伝わらない想いに締め付けられて喘ぐように、兄さんと呼ぶ。
 どういうつもりと問うのなら、これが答えだ。
「兄さん、――兄さん……っ」
「……っうるせえ!」
 ジンの執着を振り切るように、ラグナはぶんと首を振った。ジンが口を噤んだので、二人しかいない家の中はしんと静かだ。ややあって、ジン、と低い声が呼んだ。
「ジン。――おまえは俺の弟で、今ではたった一人の家族だ」
 こくりと、声を出さずにジンは頷いた。口下手な兄は頭を掻いて言葉を探す。時間がかかっても、うまい言葉じゃなくっても、嘘を吐かない兄の姿勢がジンにはとても心地良い。
 朝食の準備のために少し汚れたジンの服の裾あたりに視線を迷わせながら、ラグナは口を開いた。
「おまえとこうして、一緒に飯食ったり眠ったり、……そういうのは、俺も嬉しい。でも、おまえを……そういう風には……」
「弟だから、駄目?」
 傷つけまいとして語尾を消え入らせた兄の言葉を、ジンが引き取る。
「僕は、兄さんだから好きだよ。兄さんが僕の兄さんじゃなかったら、こんなに苦しいこともなかった。……兄さんは、僕が弟だから、駄目? 弟だから、好きになれない?」
 反射的に否定しようとし、兄は言葉を飲み込んだ。顔が苦しげに歪むのを、ジンはじっと見詰める。
 好きという言葉には二つの意味があり、一方の意味をラグナは認める。だからもう一方の意味を指して好きではないのだろうと言われても、否定できないのだ。それをわかっていてこの言葉を使うのを、ジンはずるいとは思わない。ジンは両方の意味でラグナが好きで、好きなんて言葉じゃ足りないくらいに求めている。
 兄さん。
「試させて」
 覚悟を決めて明朗としたジンの声音に、俯いていた兄が顔を上げた。「試す、って」戸惑いがジンを見返す。揺れる兄の瞳が美しく、微笑むけれどジンだって少し怖い。兄の顔に一瞬でも拒絶が浮かんだら、僕が死んでも怒らないでね。
「一回だけ」
 微笑んでいるからか、ジンの声は自分でも随分優しげに聞こえた。
「一回だけ、唇にキスをさせて? もしも気持ち良かったら、兄さんも僕が好きだって、そう信じて」
 ジン、と静止するように兄が呼んだが、ジンは無視した。
「気持ち悪いって、嘘を吐いてもいい。無理だったら、途中で突き飛ばしてもいい。今、僕を殴ってもいいよ。――それができないなら、一度だけ、可能性を考えてみて?」
 眉をひそめて兄は躊躇い、弟の正気と本気を探るように、ジンを睨んだ。ジンは充分正気だし、もちろん本気だ。
 十秒待つ。兄は動かない。ジンは一歩、兄に近付く。三秒待った。もう一歩、近付く。もうこれ以上進めない。兄はまだ止めない。一分待って、頬に手を伸ばす。指先が触れると兄は体をこわばらせたが、逃げなかった。てのひらで頬を包み、僅かに引き寄せる。「目を閉じて」囁くと、何も言わずに瞼を下ろしてくれた。睫毛の一本一本が震えているのが愛おしく、このままずっと眺めていたい。
 縋るように小さな声で兄が自分を呼ばなければ、きっとそうしていただろう。
「ジン、まだかよ……?」
「うん、ごめん、兄さん」
 頬に添えた手を滑らせ、親指の腹で兄の唇に触れる。ジンの唇に似て薄い。やっぱり兄さんは僕の兄さんだ、と胸が締め付けられながら、指先ではなく唇で、そっとキスをした。
 薄い兄の唇は、柔らかかった。
 顔を離して、兄を見詰める。すぐに片腕を口元に当てて隠されたラグナの顔は赤く、悔しがっているように目が潤む。小さな声が、長い葛藤の末で「……きもちい」と言った。
 にいさん、と呼ぼうとして、感動のあまり声が出せない。その形に口を開いたまま、泣きそうな目で兄を見詰めた。その視線を掻き消すように、ラグナは顔の前で腕を振り回す。
「おい、もういいだろ! それよりおまえ、何か作ってたんじゃねえのかよ? 飯にしよう、飯!」
 慌てて話題を逸らす兄の言葉に、そういえばと思い出す。ついさっきまで作っていたポトフの匂いが、鼻をくすぐっていた。もしかしたら兄も、これに釣られて起きてきたのかもしれない。
「うまそうな匂いがするじゃねーか」
と、照れ隠しではなく素直な期待を口にして、兄はジンに笑いかけた。その笑顔は昨夜と同じようにきらきらとして、泣きそうになるジンの瞳にとてもまぶしい。
「うん」
と、何度もジンは頷いた。「だって、兄さんのために作ったんだから」
 目が覚めたらおはようと挨拶を交わし、朝食を囲み、美味しいと微笑む。それが家族でなくてなんだと言うのだろう。ラグナはジンの兄で、ジンはラグナの弟だ。これからもずっと、何があっても。





 昔、朝は騒がしいものだった。
 今日からは、愛を伝えるための朝になる。





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2014.06.01.
続き。家族でもあり恋人でもあるジンラグが好きです。
朝寝坊する少佐様とか、料理好き兄さんとか、
一緒にお酒を飲む兄弟とか、好きなものいっぱい詰められて楽しかったです。