その声を聞かないと一日が始まらない、そういう風に世界は変わった。


 中天にかかった陽の光がカーテンを透けて部屋に満ち、ラグナの目を覚ました。小さく呻いて起き上がる。小さな家の隅々まで届く光がグラスに跳ね、水を注いで飲み干すと、家の中が静かなことに気が付いた。
 弟と暮らし始めて、一月が経つ。始める前はすぐに破綻するに決まっていると思っていたが、平和になった世界では、どうやらたかが兄弟一組もハッピーエンドは見逃してくれないらしい。ジンが仕事を休みたがってノエルやハザマを困らせる他は一切が穏やかに過ぎ、ラグナは早くもこの暮らしに慣れている。もともと順応性の高い性質なのだ。
 陽はあたたかく、布団から出ても空気はあたたかい。もう春だ。顔を洗い、服を着替えて家を出る。
 野宿生活の長いラグナにとって、時計よりも太陽の位置を見て時間の見当をつける方が手っ取り早い。しかし今日は空を見上げるより早く、鼻先を漂う香りが昼食の頃合いであることを教えた。腹の虫がそれに続く。
 仕事なんてどうでもいいようなことを言いながら、根が真面目なジンはワーカホリックのきらいがある。どうせまだ昼食をとってはいないだろう。誘って一緒に食べてやろう、とラグナの足は彼の職場、統制機構へ向かう。
 顔を合わせば殺し合いをしていた仲だというのに、なんとも不思議なものである。時間のおかげか、あるいは幼い記憶のおかげか。まがりなりにも兄弟らしくしていられるのは、ジンの方で襲い掛かってくるでもなく、単純に懐いてくるおかげかもしれない。自分の弟がようやくまともになったのを、ラグナは素直に喜んでいる。
 相も変わらず兄さん兄さんと、鳴き声のようにうるさいのはご愛嬌。
「おーい、ジン……」
「兄さん!」
 昼食に向かう人の流れに逆らって辿り着いた執務室で、予想通りに仕事中のジンが顔を上げ、ラグナと目が合った瞬間、顔を輝かせた。没頭していた筈の仕事を即時中断し、ラグナに向かって駆けてくる。逃げ道を塞ぐようにドアの前に立たれても、逃げるつもりはもとよりないのだが。この日々に慣れたラグナと逆に、ジンは未だに幸福を疑っている。
 眉間の皺を伸ばし、ジンは頬を上気させる。
「兄さん、どうしたの。統制機構に来るの、嫌いだって言ってたのに。あ、まさか、僕に会いに来てくれたの? なーんて……」
「そうだよ」
「兄さん……!」
 感極まったようにジンが声を震わせる。こんな調子で会話は遅々として進まないのだが、剣戟が挟まれることがなくなっただけ大変な進歩だろう。実際、二人でいるところにノエルが偶然やってくると、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていた。失礼な。
 食堂は満員で、二人はそれぞれ買い求めると、中庭の大木の下に座った。幼い記憶とかすかにかぶる。あの頃ジンは泣き虫で、ラグナの姿が見えなくなると、泣きそうな顔で探しに来たものだった。ラグナはサヤの看病につきっきりで、だから今こうしてジンの隣にいることは、埋め合わせになるのかもしれない。そう考えると悪くなかった。もともと統制機構に喧嘩を売っていたのだって、連れ去られた弟妹を取り戻すためだったのだ。ラグナは本質的に身内に弱い。
「はい、兄さん、あーん」
「馬鹿かっ。……おまえ、ちっとは肉も食べろよ」
「いくら兄さんの頼みでも、それだけは無理」
「可愛くねえの」
 ジンはにっこりと笑う。「いつもは可愛い弟なんでしょ?」本当に可愛くない弟である。
 昼休みが終わるとジンを執務室まで引っ張ってノエルに引き渡し、ラグナは町で買い物をしてから帰途につく。
 ラグナは依然として無職であって、軍人として勤めるジンのために、家事一般を請け負っている。大雑把な性格だから掃除には苦労するが、長い一人暮らしのおかげで料理には困らない。とは言え早起きは苦手だし、ジンは朝早いので、作ってやるのはほとんどが夕食だった。肉抜き。野菜多め。ラグナの作った料理を頬張って、ジンはますます肌艶が良い。
 玄関の戸を開けると、ラグナとジン、二人が生活してきたこの家独特の匂いがした。夕暮れが近付く家の中はセピアに色づき、ふと懐かしい気持ちも混じる。右腕に抱えた紙袋の中には、今日の夕食や明日の朝食のための食材がずしりが重い。ラグナは後ろ手に扉を閉めながら、家の中へと声をかける。顔は意図せず微笑みながら。
「ただいま」
 愛しの我が家。





「にーいさんっ」
 食後の洗い物をしているところに突然声をかけられ、手にしていたグラスを思わず落とす。
「あ、ごめん。割れちゃった?」
「割れてないけど、おまえなあ……」
「良かった」隣に並び、食器に残った泡をすすぐのを手伝いながらジンが笑う。「それ、兄さんとおそろいだもんね」
 縁が金と銀で飾られたそのグラスは、二人で暮らし始めて数日後、ジンが買ってきたものである。
「兄さんと共有できる思い出が、全然ないから……せめてこれから、兄弟として暮らす記念に」
 殊勝な態度でそう言われては、ラグナにも断る理由はなかった。『兄弟として』。かつては殺すなら弟として、と頼んだこともあった。けれどもし何も背負うことなく共に時間を過ごせるのなら、ラグナはやはり穏やかな時間を望みたい。
 十年以上前からずっと、それを望んできたのだから。
「それで、なんだよ、ジン」
「あ、僕もう寝るね。おやすみなさい」
「ああ。おやすみ」
 一緒に寝ようなんて言い出すのではないかというラグナの危惧を裏切って、ジンはいつも早々に自分の部屋に引き上げる。日中に昼寝もしてしまうラグナが寝るにはまだ早く、一人の時間を持て余しがちなのが常だった。今日は酒でも呑もうかと、戸棚の奥から酒を取り出しながら言ってみる。
「ジン、たまには付き合えよ」
 せっかくもう一人いるというのに、一人酒というのも味気ない。酒瓶を持ち上げて揺らしてみせるが、ジンは目をしばたいて、照れたように笑う。
「僕、お酒苦手なんだ。ごめん」
「ふうん……」
 どうにも嘘っぽいのだが、ラグナは頷いて、ジンが部屋に戻るのを見送った。扉の閉まる音が静寂に響くのを聞きながら、グラスの縁を指の腹でなぞる。
「おそろいって言ってもよ」聞いてくれる人のいないひとりごとを、虚しく呟く。「一人で使っちゃ意味ないだろうが、馬鹿」
 二人で暮らすのに丁度良い大きさのリビングは、一人ではやけに広く感じられる。呟いた声も寂しく空中に消えていき、口に含んだ酒もさっぱり美味くない。弟の嘘をいつ暴いてやろうかと、ラグナは据わった目の奥で考え始めた。


   ◆


 月の光が入らない部屋で目が覚めた。すると開けた筈の目に光が入らず、夢と現実の境界に落とされたような感覚がする。ジンは小さく頭を振り、ベッドの上で半身を起こす。耳を澄ますと家の中には静謐が満ちており、どうやら兄は寝たらしい。もしかしたらリビングでそのまま眠っているかもしれないと、足音を忍ばせて部屋を出た。
 しんとしたリビングに、月の光が射し込んでいる。僅かに眉をしかめた先に、兄はやはりソファで眠っていた。
「風邪引くよ、兄さん」
 声をかけ、少し揺すってみたが起きる気配はない。それを見越して部屋から持ってきていた毛布を、兄の肩にかけてやる。健やかな寝息が耳に届き、かすかな音波がジンを癒す。
「……」
 ジンはおもむろに腰をかがめ、そっと兄に顔を近づける。規則正しい呼吸音がゆっくりと近付き、ジンの体温は加速度的に上がっていく。
 もう少し。あと、数センチ。
 ジンの唇に、兄の吐息がかかる。
 熱い。
「――ん」
 ばっ、とジンは勢い良く、ラグナから体を引き剥がした。
 声を漏らした兄はかすかに身動ぎし、毛布がするりと床に落ちる。その傍らにのけぞったまま、ジンはばくばくとうるさい自分の心臓と、荒い呼吸を吐き出す口を押さえた。
 危なかった。危ないところだった。『弟』が『兄』にキスしてしまうところだった。
 幼い頃に断絶して以来の兄弟としての、家族としての生活に、ラグナが満足を感じていることを知っている。かつて自分のエゴでそれを壊したジンが、再びその過ちを繰り返すわけにはいかないのだ。
 テーブルには半分ほど酒の残った瓶が残されている。本当は、ジンは人並みに呑める方である。しかし兄と一緒に呑んで、酔って上気した彼の頬や首筋に、欲情しては困るのだ。正常に働くなった理性でもって、打ち明けでもしたら困るのだ。
 もしかしたら寂しい想いをさせているのかもしれないが、これも兄さんのためなんだ。
 ジンは毛布を手にとって、寒そうな兄の体にかけてやる。
「おやすみ、『兄さん』」
 この嘘はずっと、吐き続けてあげる。





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2014.04.20.
同棲ジンラグ。
時系列的には以前に書いたものより前にあたりますが、
あんまりちゃんと考えてない……。
ただの兄弟としてジンと暮らしつつなんとなく物足りないラグナと、
兄のために「弟」でいようと決めているジンの話。すれ違い好きです。