「如月君」
薄暗いバーの照明の下、白い手がすっと伸びて私の肩を叩く。
「そろそろ行こうか」
私は頷いて、彼の背中に続いた。
――― 深い穴の淵に立っていた。
辺り一面が闇に包まれていたが、その穴の中にはより一層濃い暗闇が満ちていた。
底は、あるのだろうか。そんな考えが漠然と浮かんだが、やがて消えていった。自分の手を差し入れてその深さを測ろうなどとは、全く考えもしなかった。
私はその淵に立って、ただ穴の中を見ていた。
彼にいざなわれたのは場末のホテルだった。数々の情欲で汚れたそのビルディングの中でも、彼の肉体にぴったりと沿ったタキシードは、慎ましく上品に光沢を放っていた。
フロントで受け取った鍵で、彼は廊下の一番奥の扉を開ける。彼は部屋の中へと入り、けばけばしい電光を消した。
そうして私を振り返った。自信に満ちた眼差しが揺らぎ、心なしか伏せられた瞳が私に視線を投げかけた。それは自信なさげに、ついてくるかと問うていた。
私は頷き、後ろ手に扉を閉めた。部屋は闇に包まれた。
――― やあ。
気付くと隣に男が立っていた。黒尽くめの割に男の輪郭ははっきりと見えた。私の見たいものは見えるのかも知れぬと思ったが、その考えもやはり漠と消えていった。
見ていてごらん。
男はそう言って、持っていたステッキでちょんと穴を突いた。
それまで闇が詰まっているばかりと思っていた空間に、波紋が広がる。
池か。
沼だよ、と男が訂正する。底無し沼だろうと私は得心した。
一緒に渡らないかいと赤い唇で男が誘った。
ちょん、と唆すように、波紋が広がる。
自らタキシードを脱いだ彼は、ベッドの上で酷く淫らに私を誘った。電気はつけないままだったが、艶かしい彼の素肌の感触と、低く高く掠れた声だけで充分だった。
くちづけもそこそこに、彼は過剰に私を煽る。私は抗う術もなく、いつしか強く腰を打ち付けていた。あらわになった彼の細い体が壊れてしまうのではないか。彼はそんなことを考えさせてはくれなかった。
強くえぐると、喘ぐというよりは呻くという動詞が似合う様子で、彼は声を漏らした。けれど自分から腰を揺り動かす彼の媚態に、私も止まることはできなかった。
挿入されたまま、彼は枕元を探って、どこからか金属製の手錠を取り出した。問う間もなくその一方の輪を自分の左手に嵌め、私に差し出した。もう一本の腕のために残された輪が、所在なく揺れる。手を伸ばすと、すいと逃れて両手を頭上に横たえた。捻れた二の腕の間から送られる流し目が、私を捕らえて離さない。
「固定を」
私はそろそろと、ベッドの上の柱に鎖をくぐらせて、彼の右手首にも手錠を嵌めた。彼は満足そうに吐息を漏らし、固定された不自由を確かめていた。手錠に触れようと手を伸ばすと、内側が刺激されたのか、私の下で彼が喘いだ。
体勢を戻しかけた私の手を取って、彼は自身の首へと触れさせる。瞼は淡く閉じられて、唇がねだるように上向きに開いた。
「首を絞めてくれないか」
玩具の手錠とは違い、その行為は生死に関わり、犯罪へと発展しかねない。躊躇った私の手を上から抑えて、彼はもう一度懇願した。
「首を」
そろそろと、私は彼の首に触れた。指の腹の下で、とくとくと脈打つ赤い血脈を感じる。彼は目を閉じたまま、促すように首を反らせた。喉仏が浮き上がり、私の指はそのくぼみにぴたりと収まる。
力を込める。
きつく寄せられた眉の下で彼の瞼が痙攣し、唇は空気を求めて小刻みに開閉を繰り返した。それは少なくなった空気に苦しんでいるようにも、強すぎる快感に酔っているようにも見えた。
潤んだ瞳に促され、私は律動を再開する。白く細い首筋を折るかも知れないと思いながらも、私は手に込めた力を強めた。
――― あなたは一緒に沈んでくれる人を探していたのでしょう。
男は狼狽したように口を開いたが、すぐにそうだよと極めて軽い調子で答えた。
一緒に沈んでくれるかい。
私は頷いて、その手を取った。
温かい手だった。
カーテンを開けると一瞬にして白い光が部屋に満ち、ベッドに沈む彼の裸体をすみずみまで晒した。
白いシーツは僅かだが彼の血に汚れ、昨夜の行為を思い出させる。私は目を逸らし、彼の手を戒めていた手錠を解いた。
光に反応してか、手錠を解かれたことに気付いてか、彼は薄く目を開いた。
「よく似合っているよ」
そうして部屋の扉に視線を向け、もう一度私を見た。
私は頷いて、その部屋を後にした。
――― 気が付くとまた沼の淵に立っていた。
沼に触れようと手を伸ばして、妙に腕が突っ張るのに気付いた。
男の着ていた服を、私は着ていた。
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2012.06.23.
Twitterにてリクエストいただきました烏メル=如月烏有さん×メルです。
リクエストしてくださった奏さんの烏メルがとても好きで、
烏メルと言えば同じような展開しか思いつきませんでした。すみません……!
その点について奏さんに許可をいただいたの上で掲載しています。