これは僕がまだ恋に落ちる前の話です。





恋の如く
[発熱]




 名前も知らない同い年の少年を、いつもと云うほど見ていたわけではないが、その長い前髪で覆われた額やその下の二つの眼球を日の下に晒したいと思っていたのは確かだった。もしかしたらヴァンパイアのように灰になってしまうかも、と冗談のつもりで思っても、彼に関して云えば冗談になってくれなさそうなことにげんなりする。鬱陶しい前髪。いや、鬱陶しいのはその長い髪全体だ。珍しいくらいに黒い髪が、特に手入れもされず整えられてもいずに、おそらく起き抜けのまま、重力に従ってだらりと垂れているのは極寒の環境でも暑苦しいと感じるだろう。夏なれば尚更だった。切ればいいのに、……というよりも切るべきだ。地下だからと云って、スリザリンの他の連中も暑くるしいと思わないわけがないだろうに。――― 手があんなに白いのだから、きっと額はさぞ白いに違いない。
 ああ、今日もまたスリザリンとの合同授業。僕にとって視覚の熱源と化したあの黒髪は最前列に座るので、目に入れないことは不可能なのだ。
「暑いんだよな……」
「何が?」
 無意識に呟きが漏れ出でたのを、隣のリーマスはしっかりと聞いたようだった。僕はうだるような暑さに耐えながら、前列を指さす。
「ほら、あいつ……」
と場所を教えようとしても、目当ての黒髪はどこにも見当たらず、人差し指は虚空で彷徨った。
「……なに、さぼり?」
 この僕がこの暑さに耐えて出席してるって云うのに?
「あーわかった、セブルス=スネイプでしょ?」
「え? 誰?」
「黒くて長い髪の子でしょ? スリザリンの」
「うん。えっと? なんだっけ、名前?」
「セブルス=スネイプ」
 リーマスはもう一度云って、羊皮紙の端にペンを走らせた。Severus = Snape. そういう名前だったのか。
「保健室じゃないかな。彼、体が弱いみたいだから」
「へえ」
 リーマスは情報通だ。どこから仕入れてくるのやら、あえて聞かない。
「あの髪暑いよなあ……」
「僕も少しそう思ってた」
「……保健室に行ってくる」
「うん」
 リーマスが頷いたので、僕はそのままバターン、と机に頭を激突させた。
「先生、ポッター君を保健室に連れて行ってもいいですか? 夏バテみたいで」
「あら、大変。お願いするわ」


 教室を出て、廊下の角を曲がるとリーマスはぱ、と僕に貸していた肩を外した。
「じゃあ、僕はどこかで時間潰してから戻るよ」
「Thanks. あっ、リーマス」
「なに?」
「僕は夏バテなんて絶対にしないぜ」
 少し睨むと、リーマスはいつも通り穏やかに笑って、「じゃあ君が戻ってくるまでには誤解を解いておくよ」と請け負った。





 保健室の戸を小さく叩き、返事がないのでそのまま開けて入る。中は涼しく、適温に調節されていた。カーテンの閉められたベッドは一つだけ。耳を澄ませると寝息のような規則正しい音が微かに聞こえてきたが、念のため外から声をかけた。
「Severus?」
「………………」
 返事はない。カーテンを開いた。勢いにカーテンの裾がひらりと舞う。白いシーツに黒い髪が水のように広がっている。
「Severus?」
 もう一度声をかける。矢張り反応はない。寝たふりをしているわけでもなく、自然と眠りが深いようだった。「不用心な子」
 魔法で取り寄せたのは鋏。髪を切るためのものでもなんでもない、ただの武骨な鋏だ。両の刃を重ねれば、しゃっと鋭い音がした。しゃっ、しゃっ。冷たい金属は出す音まで涼しい。
 ベッドの端に膝を乗せて体重を預け、反動を利用してもう片方の足をベッドの上に載せる。彼の顔を正面に見るように馬乗りになると、鋏の刃の間に彼の前髪を挟む。そのまま刃を交互に重ねた。
 じゃり、と、空を切るのとは違う音が、僕の耳を冷やした。じゃり、じゃり。白いシーツの上に次々と彼の黒い髪が散らばっていく。
 鋏を持つ手が時々彼の額に触れて、その熱さに驚いた。熱があるとは信じられないほど、肌の色は矢張り白かった。髪に覆われて、日に当たったことがないのかも知れない。血管が透き通って見えそうだった。血は僕と同じに赤いのだろうか。
 瞼は緩く閉ざされたまま、一向に開く気配を見せない。なんて不用心で鈍感な子。前髪を切り終えて、後ろの髪も切ってしまいたいのに、起きないのではそれも出来ない。しかし起こすのは躊躇われた。彼の瞼はぴくりとも動かず、寝息は安らかで、まるで生まれて初めて眠ることができたとでもいうように幸福そうだった。呼吸に合わせて僕の脚の下で薄い胸が上下し、赤い唇が微かに開いてみせるのが煩わしい。――― なぜそんなに幸福そうな顔をして眠るのだろう。
 鋏の代わりに氷袋を、彼の額に置いて保健室を出た。





「ジェームズ、何見てるんだ?」
「ああ、シリウス。――― 彼、髪切ったんだなあと思って」
「切ったのお前じゃん」
「前髪だけね」
 寝ているときと打って変わって、起きている彼は眉を顰め、地獄見たように苦しそうな表情でいつもいた。
 笑えばいいのに。
 通り過ぎざまにうなじに氷を当てたら、飛び上がって驚き、振り返ってくってかかってきた。
「いつもいつもっ、何をするんだポッター!」
「笑えばいいのに」
 正直に伝えると、何を云っているのかわからない、という顔をされた。
「熱でもあるんじゃないのか?」
 ふん、と鼻で笑って、スネイプは今日も最前列に座る。白いうなじがよく見えた。やっぱり髪なんて切らなければ良かった。あんな顔をして眠るだなんて知らなければ良かった。
「君に伝染されたんだよ」
 授業が始まる。季節は秋になり視界にあるのはただ冷ややかな白いうなじなのに、僕の心臓は熱く脈打つ。











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2009.07.29.
恋の始まりは熱く。
人が恋に落ちる瞬間が好きです。
これは一目惚れというもの。


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