もしももしも正義の味方が悲しいときに慰めてあげるのは一体誰なんだろう。






 『今夜一緒に食事に行きませんか』
 ヒグチからメール。ほとんど毎日顔を合わせているからこそ珍しくなるコミュニケーションツール。表面に浮かび上がった名前を見て、ぱっと反射的にケータイを手にとっていたが、読んだ瞬間になんだか安堵して、返信はせずに閉じる。次の瞬間、部下に呼ばれて席を立った。
 ヒグチはメールではいつも丁寧な言葉遣いをする。それは慇懃無礼とは映らずに、自分が丁重に扱われている感覚を、一ミリもずらすことなく的確に笛吹に与える。けれど携帯電話の十二のボタンを押して、周囲には絶対に文面も相手も悟られないような飄々とした顔でそんな言葉を打ち込むヒグチを想像すると妙に切ない。きっとそれは笛吹への愛情とはまた別のところで、顔が見えない相手に対してとる、ヒグチなりの防衛策でもあるんだと思う。だからヒグチのメールは読んだ時にとても複雑な気持ちを起こす。嬉しさや、切なさや。
 最近は忙しいが、朝にはヒグチと朝食をとることも出来るし、定時に帰ることも出来ないでもない。けれど時間的な拘束よりも、精神的な負荷が大きい。今日は頭を下げてばかりだ、と思いだしてまた溜息をつく。その行為を常習にしないために、不必要だと感じれば強要されても絶対にしないのが笛吹の性格である。それが警察組織内での軋轢を生み、更に笛吹を苦しめる原因となる。その悪循環に気付かない笛吹ではないが、やっかみや批判は無能な人間のすることだ、と云って退ける。そう云うためには笛吹自身の能力が高いことを証明しなければならない。その精神的負荷である。自分を追い詰めていることに、気付いても、どうにも出来ない。
 五時を過ぎ、いつの間にか八時を回っていた。送ります、と筑紫が云うのを断り、先に帰した。一人になった部屋は、がらんとしてやけに広い。ヒグチはもう帰っただろう。そう云えばメールの返信をしていないと思い出した。帰らないといけない。
 体が重かった。腕が、脚が、水を吸った綿のように重く、椅子から立ち上がった瞬間には眩暈がした。ぐらり、とバランスを崩して、無様に椅子に倒れ込む。疲れているのだ、とそこで気が付いた。
 そうか、疲れているのか。
 気付いてしまえば簡単だった。あれもこれもと思い当たる節ばかりで、今まで気付かなかったのは、自分自身でその事実を拒否していたからだ。無意識に。
 大きく息を吐いて、椅子に深く体を沈めた。あっけないくらい簡単に意識は緩んだ。涙腺までも弛みつつあるのを感じたが、けれど一人である今、誰に対してプライドを保つ必要もないと、涙が出るに任せた。泣いている間はヒグチや、その他の親しい人の顔を思い浮かべていた。会いたいというのではない。泣いている姿を見られたくはないのだ。けれど今、泣いているこの瞬間自分は確かに安らいでいるのに、彼らがここにいないというのは不思議な感じがした。
 ひとしきり涙が出尽くすと、すっと立ち上がり、部屋を出た。自分の体が、確かに自分のものであるという感覚。ここ暫くなかった、生々しい感触。もう重力など気にならなかった。
 廊下の先に、体育座りで蹲る人影を見付けた。ジーパンに緑のパーカー。ヒグチだ。
「……ヒグチ?」
「あっ笛吹さん!」
 ヒグチを呼ぶ声は少し掠れた。彼はぴょん、とバネのように飛び上がり、駆け寄ってきた。「……泣いてたの?」ふわりと、額に柔らかなヒグチの髪がかかる。黒目がちな瞳に、自分の瞳も映っているのが見えた。きっと心配をするのだろうから云わないでおこうと思っていたのに、会うなり云いあてられて、少し戸惑う。
「……ヒグチ」
「目が赤いから」
 かっと顔が赤く染まるのを感じた。ヒグチも少しバツが悪いようにはにかむ。
「……泣いてなど、いない」
「うん」
「……帰るぞ」
「はーいっ」
 ヒグチが元気よく返事をして、
「ねえねえ笛吹さん夕飯なんだけどさあ」
 笛吹さんが行きたいって云ってたレストランにしようよ、と誘われれば断る理由なんてない。頷けば嬉しそうに笑う。やっぱりヒグチは喋っているのがいい。声や笑顔やその輪郭が全て、笛吹をここに繋ぎとめている。











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2009.08.12.
弱ってる笛吹さんと優しいヒグチの組み合わせに
私はどうやらとことん弱いです。


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