下界のシステムに合わせて、冥府でも四月から人事などに変化があることが多い。勿論鬼男が異動の煽りを受けることはないが、今年はどうやら明かりへの霊力供給にも変更があったらしい。四月一日へと日付が変更した瞬間、冥府の明かりが一斉に消えた。
 そのとき、鬼男と閻魔は時間のかかった仕事を終え、お茶をしながら労い合っているところだった。夜中の紅茶はとびきりに美味しく、話も弾んだ。日付からの連想で、下界のエイプリルフールという習慣について閻魔が鬼男に説明していると、部屋の明かりが音もなく消えた。
「わっ暗い! 今度は何しやがったお前!」
「ええっ俺じゃないよ! 最近ずっと真面目に仕事してるじゃん!」
 暗闇の中で閻魔が必死に弁明する空気が伝わったのか、鬼男は「すみません」とあっさり謝る。
「わかればよろしい。……あ! わかった、四月になったんだ。配線変えるって言ってたんだけど、ミスっちゃったのかな」
 ぱっと視界が明るくなる。閻魔の手の中で鬼火が燃えていた。青白い炎で映し出された閻魔の顔色は不健康に白かったが、そこに浮かんだ表情は悪戯っ子のように輝いていた。
「こんなこと滅多にないんだからさ、これで冥府の中探検しようよ、鬼男くん」





 夜中だからいいよね、とかなんとか言ってセーラー服に着替えようとした閻魔をセーラーごと刺し(『俺の萌え返せ!』)、鬼男は閻魔からもらった鬼火を右手に部屋を出た。どうやらこんな夜中に起きているのは自分達だけらしい。皆、眠っていて異常に気が付いていないのだろう。冥府の中はひっそりと静まりかえり、廊下は深く暗い闇に包まれていた。掌の鬼火は少し頼りなかったけれども、足下と隣で歩く人を見るのに不便はなさそうだった。
 二人並んで歩く。そうすると一層明るくなった。照らされない闇が存在感を増したが、冥府の王とその秘書は気にしなかった。探検探検、とはしゃぐ閻魔を黙らせ、鬼男は目的を配線室に絞った。
「……そういえば、さっきのエイプリルフールの話ですけど」
「うん」
 閻魔は相槌を打つ。記憶に頼って歩く冥府の廊下は、奇妙に長く感じられた。何しろ先が見えないので、いくら歩いても終わりがないような錯覚を覚える。時折現れる曲がり角がそれを打ち消した。
「一年に一度、嘘を吐いても許されるんですよね」
「そうだよ」
「それが可能だとしたら、……その嘘を許すのって大王ですよね」
「えっ?」
 言われてみればそうに違いない。嘘を吐くと閻魔大王に舌を抜かれる、とは人間の迷信で、実際には閻魔はそんなことをしないが、大きな嘘を吐いた者を地獄へ送るのは閻魔の仕事である。
「それくらい自分で気付いて下さいよ」
 馬鹿にしたような目を向けてくる鬼男に、閻魔は堂々と反撃する。
「でも、エイプリルフールって言っても、どんな嘘でも許されるわけじゃないもん。小さな嘘は見逃したげるけど、大きな嘘はやっぱり駄目だよ。普段の裁判と変わんないんだって。だからこそ今まで鬼男くんにも言ってなかったんじゃん」
 確かに、死者を裁く上でそんな重要なファクターがあるならば、秘書の鬼男が知らないほうがおかしいのだった。鬼男が知らなかったということは、すなわちエイプリルフールが俗信に過ぎないことを示している。
「でも」
 鬼男は道の先を照らしながら、
「どんな嘘でも許せるんなら良かったですよね」
と不満そうに言った。驚いて、閻魔は「なんで?」と問い返す。仕事に真面目なこの秘書がそんなことを言うとは。
「だって、地獄行きの死者を減らせるじゃないですか」
 嘘吐きの罪が一日分減るんですから、と鬼男は説明口調で言って、
「残念です」
と眉尻を下げて微笑んだ。
「……」
 気付かれない程度の間を置いて、閻魔はそうだねと同意した。
 一日三回。
 それは閻魔が地獄に連れて行かれ、地獄へ落とした死者達から罰を受ける頻度だ。全ての死者の王、神と呼ばれる閻魔大王であっても、死者に苦しみを与えることは大罪とされる。しかし後で受ける苦しみを知っていてもなお、閻魔は目の前の死者の罪を赦すことが出来ないのだ。――― 地獄と告げる度に、彼の罪は一つ増える。
 鬼男の言葉は、閻魔大王が死者の罪を赦すのを正当化してみせた。鮮やかで優しい論理は、しかし裁判の間では役に立たないのだけれど。君の言葉に騙されてしまいたいな、と閻魔は笑顔を浮かべた。
「世界がみんな君みたいだったら良かったのにね」
「……なんです、それ」
「君は優しいなあって思って」
 いいこいいこ、と閻魔は手を伸ばして、自分より背の高い鬼男の頭を撫でる。鬼男はわけが分からないまま、その手を振り払うことも出来ずに顔を赤くした。
 その様子を満足げに見ながら、閻魔は声を出さずに呼びかけた。
 ねえ鬼男くん、今から嘘を吐くから聞いてくれるかなあ。
 俺ねえ、ほんとはもう全部厭なんだ。
 一番初めに死んだからって、いつの間にか輪廻から外されて神様なんかにされちゃって、毎日まいにち天国地獄てんごくじごく、憎まれちゃって恨まれちゃって、裁いたところで地獄で責め苦。――― なんで俺なんだろうね。俺はもう指先一ミリだって動かしたくないよ。
「大王?」
 いつまでも止まらない、けれど少しずつ力をなくしていく閻魔の手に不審を感じて、鬼男は呼びかける。閻魔の顔は幸せそうに微笑んだままで、心配している鬼男のほうがおかしいみたいだった。
 いなくなっちゃいたいよ。
 閻魔は心の中で静かに嘘を吐いて、「ん? どうしたの?」と声に出して鬼男に応える。
「いえ、なんでもないならいいんですけど……」
「やー、こうしてると昔みたいで可愛くってねえ。さ、さっさと行こうか」
 鬼男の背中をばしん、と叩く。均整のとれた彼の体はふらりとも揺らがない。それで閻魔はますます安心した。ほっとして、胸を撫で下ろしたいほどだった。彼は閻魔大王の泣き言を聞いてはいない。――― 世界の終わりまで大事に隠しておこうと決めていた弱音だったのに、なんで言ってしまおうとしたのだろう。たとえ声に出さなくても。嘘と偽っても。
「……」
 きっと彼があまりに優しいから、こんなことを言っても許されるのではないかと思ってしまったのだ。
 彼はきっとこんな俺でも見捨てずに怒って罵って叱って慰めて励ましてくれるだろうから、俺は甘えようとしてしまったのだ。
 俺はどんどん、どんどんどんどん駄目になっていくなあ。
 絶望的な気分で、閻魔は自分の中にある鬼男への恋心を眺めた。そうするとどこからともなく、でもどうしようもないじゃないか、という声が聞こえて閻魔の絶望を煽った。冥界の王ともあろう者が、恋ごときで理性を失うなんて滑稽だ。でもどうしようもないじゃないか、素敵な恋をしているのだから。声は次第に大きくなっていき、誤魔化すように閻魔は笑みを浮かべた。
 その表情はどこかうっとりとしたようなものだったので、鬼男には幸せのように見えた。だから本当にそうだったら良いのにと願いながら自分も笑みを浮かべた。
 優しい《閻魔大王》は後悔を見せない。世界の何者も、彼の運命を変えるためには無力だと知っているからだ。どんなに求められても、彼は自分の絶望を他人に与えない。
 鬼男は想像する。自分にも世界にも嘘を吐き続けるこの人は、本当は嘘が苦手なのではないだろうか。自分の安寧が見えているのに、亡者の罪の一つも見過ごすことが出来ない人なのだから。他に誰も知らないような長い時間をかけて、冥界の王はその嘘を身に付けたのではないだろうか。
 ならば、いつか彼の嘘を世界中が見破ってしまう時が来たとしても、自分だけは騙され続けてやろう。彼のために仕事をしろと毎日怒鳴り、仕事が終われば褒めてやるのだ。――― 世界が終わるまで。
「大王」
 鬼男は呼び、閻魔の手をとった。閻魔は驚いたように口を開け、「さっきからびっくりしてばっかりだ」と照れたように笑った。やっぱり全部嘘にしてしまおう、と閻魔は思い、《閻魔大王》であることすらもこの人の幸せにしてみせよう、と鬼男は思った。
 二人の手の上で揺らめく鬼火が、冥府の闇に静かに陰影を作った。最も近くで照らされた笑顔は、それだけが光源ではないように煌々として互いの眼に映った。明かりが戻ればこの笑顔が見られなくなり、更には暗闇の中で動いた気持ち全てがなかったことになりそうな気がして、どちらもが少し惜しく感じていた。











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2010.03.28.
エイプリルフール+#2[視覚異常]で閻鬼。
考えていることが違っても、
同じ方向を向いているなら
幸せになれるような気がします。


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